見出し画像

フランスの親友

(アルザス生活その5)


「英語を話しますか?」こう聞くと、ほとんどのフランス人は「ノン!」と答える。そのキッパリした答えは、くだらない質問をしてしまった、と、みじめな気分にさせるほどだ。それでも、フランス語の会話に手がおえなくなると、「ノン」という答えと、そのあとの情けない思いを予想しながらも、勇気を奮い起こしてその問いをくり返すことになる。
 
 フランスに行くとわかってから、近所にフランス語の先生をみつけ、個人レッスンを受けた。泥縄式もいいところだ。大学時代に、第2外国語として3年間勉強したが、もうすっかり忘れてしまい、「エートル」と「アヴォワール」の動詞変化さえ、おぼつかなくなっていた。

 フランスの大学を卒業なさったという先生は30歳を少しこえたくらいだろうか、長いストレートヘヤーをかきあげながら、少し唇をとがらせ、挑戦しているような口調でフランス語を話した。笑うと可愛いらしかったが、熱情型だった。フランス語で、車のことを「voiture」と書くが、発音は「ヴァチューク」(最後のクは無音)に近い。すっかり発音を忘れ、英語風の 「ヴォァチュァ」と読んでしまったら、こぶしで机をドン!とたたき、「わたし、そんなふうに教えました?」と声を荒げた。

 フランスに長く住んでいた人は、やっぱりちょっと変わっている、と考えて自分を慰めようとしたが、そのときのショックはその後も時々わたしの胸を刺した。ラジオ講座も聴き、せいいっぱい勉強したつもりだったのに、フランスに住んでみると自分の語学力のなさを思いしらされた。

 暗記してある文章を言えば通じはするが、相手の答えが聞き取れないのだ。日常会話ならジェスチャーでなんとかなっても、テレビ、電話となるとお手上げだ。テレビニュースはオーバーに言うと、ボンソアしかわからない。電話はわたしのモタモタフランス語と、「パルドン?」(モウイチドイッテクダサイ)に相手がうんざりするらしく、途中で切られてしまうこともあり、ちょっとした電話アレルギーになってしまった。

 もっと言葉がわかるようになりたい。でも、パリならばともかく、こんな田舎町にフランス語学校など望むべくもない。フランス人の友達をもてば言葉が上達するとわかっていても、道の真ん中に立って通りかかる人に「友達になってください」とも言えないではないか。


 そんなある日、ふと思いついた。もし英会話学校があったら、そこで、英語でフランス語を教えてもらえないだろうか?英語だってペラペラとはいかないが、フランス語よりはずっとましだ。さっそく電話帳を調べてみた。 1校だけみつかった。それも同じ町だ。「英語を話す方はいますか?」  そのフランス語の文章を頭の中で繰り返しながら番号をプッシュした。 「アロウ?」と答えた女性の声が、私の言葉で英語に変わった。 

”Yes,I do. But not enough.”

 私は近くに住む日本人だが、英語でフランス語を教えてほしい、と言うと「先生が七時ころ来るから、その頃来てください」とのこと。学校の場所は、電話局の向い側ということもわかった。

 夕食をすませ、早めに家を出た。晴れていれば七時はまだ十分明るいが
その日はあいにくの雨で薄暗く、シャッターの降りた石つくりの家々は、昼間よりもっと外国人である私を拒絶しているように感じられ、心細くなった。学校はすぐにみつかったが、ここも真っ暗だった。ベルを押しても何の反応もない。しばらく待ってみたが、ついに諦めた。翌日昼近くにまた行ってみた。ベルをならすと、中年の女性が現れ、「マダム、コマンサバ?」とにっこり迎えてくれた。きのうのことは、私の聞き間違いらしかった。彼女は受け付け係で、先生に連絡をとってくれ、毎週水曜日と金曜日の2時から、1時間130フランでレッスンを受けることになった。

 水曜日、はれてクフス英会話学校の生徒になった私は、英語とフランス語の辞書で重たい鞄をかかえ、教室に入った。八畳くらいの部屋はガランとしていて、大きなテーブルが一つと、五、六脚の椅子、黒板があるだけだった。テーブルにかけられた赤いチェックのビニールクロスは、部屋にそぐわない感じがしたが、窓から射し込む太陽の光が私の気分を明るくした。椅子に腰掛け、窓から青々と茂るプラタナスの枝を初めて見るように眺めた。いつも観客席からフランスを見ていた自分が、やっと舞台の上の一員になれたような気がした。

 先生は、マダムシュレビといって、堂々とした体格で茶色の縮れた髪、灰色の瞳をしていた。自分はカナダ人で、フランス人と結婚してフランスに来たこと、子供が三人いること、近くのロズノーという町に住んでいることなどを英語で話してくれた。そして、日本のことはほとんど知らない、ただ、日本人が世界を征服(コンカー)しようとしていること以外はね、と困ったように笑った。
「コンカー?」思わずくり返し、私も笑ってしまった。


 たしかにフランス人は日本のことを知らない。近所のクリーニング屋の奥さんは、私が日本人だと知ると、「なぜ、フランスに来たの?日本は冬は寒いの?」と熱心に聞いてきた。その素晴らしい発音のフランス語の問いに的確に答えるのは、ちょっとたいへんだった。 

 テレビのクイズ番組で、賞品として日本の車が紹介されたときも、がっかりだった。アシスタントの女性が、車の前で手をあわせて深々とおじぎをすると、中国風のドラが「ジャーン!」と鳴ったのだから。

 マダムシュレビは、まず主な動詞の変化と、よく使われる名詞(冠詞を含めて)をずらりと黒板に書きながら説明してくれた。日本での特訓のせいで、なんとかわたしがのみこめていると知ると、廊下の本棚から絵本を一冊出してきた。来週までに、よく読んでくるようにとのことだった。最後に

「私のことクリスティーヌと呼んでね」

と言った。外国人がいう決まり文句だが、その言葉は私を感激させた。やっとファーストネームで呼ぶことのできる相手がみつかったのだから。

画像1

 宿題の絵本はかなり手ごわかった。1ページにわからない単語が10はあったし、発音記号をみただけで正しい発音を知るのは雲をつかむようだった。しかし、勉強の時間はたっぷりあった。次のレッスンまでになんとか読め、内容がわかる程度の準備はできた。

 クリスティーヌは、わたしの発音が正確なものに近づくまで何回も繰り返させた。内容に関する質問に答えられないと、「来週、もう一回やりましょう」と言った。授業の最後の10分間は、フリーカンヴァセーションにあてられた。フランス語と英語のごちゃまぜで、私たちはいろいろな話をした。

「日本人は牡蛎をフライにする」ということに、クリスティーヌは驚き、「カナダには豆腐のアイスクリームがある」という話に私が驚いた。しかし、一番クリスティーヌを驚かせたのは、日本人が「ホテルで結婚式をあげる」という事実だった。
「えっ?ホテルで?どうやって?ホテルは泊まるところでしょう?」
眉間の皺が一層深くなった。

 授業が終って別れるとき、彼女はいつもちょっと困ったように笑った。英語も、ましてフランス語も思うように話せない私を哀れんでいるのかな、とひがんだこともあった。言葉の通じない部分を笑顔で埋めるように、せいいっぱい明るく笑って別れたが、私の笑顔ももしかしたら寂しそうに見えるのかな、と考えたりした。

 最後の授業のとき、「いつか日本に来てくださいね」と言うとクリスティーヌは、「あなたの家へ?」と聞いた。「あなたの目で日本をみてほしいから」という意味で言ったのだが、「ノン」とも言えず、「ウイ」と答えると、彼女はとてもうれしそうだった。でも、「日本は遠いし、旅費は高いし、子供は小さいし、当分は無理ね」とのことだった。

 アルザスの田舎町にいると、本当に日本は遠く思われた。横浜駅前の大地下街や、ラッシュのJRや、半分に切られてパックされている野菜や、
構内にコースのある自動車学校など見たら、クリスティーヌはどんな顔をするだろうと思った。劣等感で悩んだりもしたが、クフス英会話学校での時間は私にとって大切なものだった。

 クリスティーヌからは、今でも半分英語、半分フランス語でかかれた手紙が届く。その後フランスには何回か行ったが、スケジュールが合わなくて再会はできていない。いつかまたあの教室で会えたら、今度は心からの笑顔で接することができるだろう。彼女はフランスで得た大事な親友になったのだから。そんな気がしている。

            アルザス生活その5おわり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?