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プロフェッショナル


玄関のチャイムが鳴った。酒屋のおやじさんだ。野球帽をかぶり、着古したジャンパーを着、かつては濃紺であったろう沢の鶴の前掛けを、お腹の下にずり落ちそうに巻き付けている。ビールのケースを肩から降ろし、額ににじんだ汗を手の甲で拭いながら言った。

 「いやぁ、あったかかったり、寒かったり、調子くるいますねぇ。こんな          時期は体力が落ちないよう気を遣うんですよ。朝ごはんに、生野菜を茶碗一杯食べる。前はご飯を茶碗二杯におかず少しだったけど、それじゃ栄養が偏る。だから、人参をこのくらいに千切りにしてね、セロリもレタスも一緒に食べるんですよ。ドレッシングなんて好きじゃないからそのまま。あんまりうまいもんじゃないけど、体のためだからね。ビール?いやぁ大好きだけど、あれはあんまり胃に良くないからね、控えてるんですよ。ちょっと胃が弱くてね」

おやじさんは、左手で胃のあたりをさぐり、ちょっと顔をしかめた。

「店を九時半ころ開けて、午後はずっと重いもん運びっぱなしだもんね。腰やられるだろうなんてよく言われるけど、今のところ大丈夫ですよ。いなか育ちだから、子供のころから山でたきぎとって親父と背負って帰ってきたりね。まぁ鍛えられてるっていうのかな。
今はないけど、酒屋になりたての頃、四斗樽というのがあってね、それ   を肩に乗せて運んだもんですよ。中に入っている醤油とか酒がね、こう運ぶと樽の中で動く、その動きに合わせて歩かないといけない。揺れ返しが来た時、無理に歩こうとするとよろけてね、転ぶこともある」

親父さんは、手のひらを上に向け樽を運んでいる格好をし、狭い玄関でよろけてみせた。

「こつがあるんですよ。ちょっと前までビール三ケース、こうキッチリ重ねてね、肩に乗せて運んだもんですよ。今はもう歳だから一ケースぐらいにしてるけどね。一度ぎっくり腰やったらもう回復力ないもんね。だから注意してるんです。
配達に来る若いの、あれ息子なんです。息子にはね、厳しく言ってるんですよ。チャイム鳴らしても、お客さんが〚どうぞ〛というまでドア開けちゃいけないってね。ほら、風呂出たてで、裸でいるかもしれないし、何か都合があるかもしれない。知り合い同士なら、〚なんだ、そんなかっこうして〛って言えるけどね、それから集金の人とか先客があるときは、その人の用事が済むまで外で待ってろってね。ものには順序ってものがある、人さまをおしのけてやるとろくなことはない。今はいい加減な若い人いっぱいいるけど、あれはいやだねぇ。いやあ、すっかりしゃべくっちまって、どうもありがとうございました」

おやじさんは、膝に両手を当ててちょっと腰をおとし、一礼すると、空瓶の入ったビールケースを肩に乗せ、後ずさりしながら背で器用にドアを開けて帰って行った。


姉の家に手伝いに通っていたころ、義兄の飲むビールの配達を駅近くの酒屋さんに頼んだ。あまり広くない店の旧式のレジの前に、四十歳くらいのおかみさんがいて、わたしの注文をマニュキュアのはげかかった指で伝票に書いた。

二回目は、電話で注文した。私が姉の苗字をいうと、おかみさんは、ごく自然に「ああ、○○ハイツの、宇野さんですね。ビールはサッポロ小瓶ですね」というのだ。たった一度会っただけなのに、この記憶力の良さはどうだろう。私は、すっかり感服してしまった。

おまけに配達に来るお兄さんがめっぽう礼儀正しい。まだ二十歳はたち前だろうか、色白で、手を前掛けの前で組み、はにかみながら頭を下げる。一度おつりが多すぎたので、その次の配達のときに返すと、翌日かわいいピンクのタッパーを三つ持ってお礼にきた。「電子レンジでそのまま温められるものです。お粗末ですがどうぞお使いください」と、そのときの恐縮ぶりは気の毒なほどだった。

数日後、酒屋の前の狭い歩道を行くと、ちょうど店からでてきたおやじさんにばったり会った。おやじさんは「こんにちは」といいながら二、三歩後ずさりしてわたしに道を譲った。その姿は実にさまになっていた。

               

             おわり


「語り」という書き方をやってみました。うまくいっているでしょうか?
最後までお読みいただきありがとうございました。

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