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珈琲と #シロクマ文芸部

 珈琲との出会いは、10歳のころだった。静岡の田舎で育った私にとって、
飲み物と言ったらなんといっても緑茶、それに牛乳、親戚のおじさんがお店をやっていたので、そこで買うジュースくらいだったから。

 当時、10歳年上の姉が婚約し、どんな理由か忘れたがその婚約者のお宅に
ついて行ったとき、珈琲が出されたのだ。蒼い花模様の洒落たカップに
銀色の小さいスプーンが添えられていた。10歳だったわたしは、おずおずとスプーンでその見慣れぬ飲み物をすくうと口に入れてみた。これはなに?そんな思いでいっぱいで、味は全く覚えていない。着物姿の若く美しい姉と
ポニーテールのわたしが並んでいるその日の写真が残っていて、見るたびにあんな飲み方をしてしまったことが恥ずかしく思い出される。

 さて、女子大二年生になったわたしは熱烈な恋をした。相手も二つ年上の大学生、旅先のユースホステルのゲームで偶然ペアになったのだ。今まで会った中で一番の美青年で、スラリと背が高く笑顔がたまらなく素敵だった。どうして連絡先を交換したのか全く覚えていないが、東京に戻ってから勇気を奮い起こして電話をすると、「大学祭に招待するからおいでよ」とのこと。友達からスエードのブレザーを借り、一番かわゆく見えるスカートをはいておずおずと出かけた。おずおず、はわたしの定番だ。

 大隈重信の銅像の前で写された写真の、わたしの笑顔が固いのは言うまでもない。帰りに喫茶店に寄り彼が頼んでくれた珈琲の味も、もちろん覚えていない。彼が就職して忙しくなり結局恋は稔らなかったが。

 昨日、用事があって出かけた帰りに、友だちとよく行く喫茶店に寄った。フレンチトーストが美味しい店なので、それと珈琲をセットで頼んだ。音を立てないようにナイフとフォークで切り分けたトーストを一口、その甘みが残っているうちに珈琲をブラックで一口。もうおずおずなんかしない、堂々と優雅に。そして、これは何回目の珈琲だろうと考えた。珈琲をめぐる物語はいつかまた始まるのだろうか、と。

           おわり



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