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この時代をSEVENTEENと呼びたい。


SEVENTEENのコンサート、Be the Sunに行った。

その感想を今回は少し書き出してみたいと思う。

SEVENTEENは私が一番最初に好きになったKーPOPグループだ。

それから、私がKーPOPに抱いていた無知ゆえの偏見を叩き割ってくれたグループでもある。

私がK‐POPに抱いていたイメージはこうだ。

『K‐POPにおける「コンサート」は一種の「芸術品」である。』

もう少し嚙み砕くと、コンサートは完成された芸術のようなパフォーマンスを見に行くもので、そこに観客の入れ込む余地はないと思っていた。

SEVENTEENの芸術性は言うまでもなく、もちろん高い。
今回のコンサートでも、何度も彼らの刹那的な美しさにハッとさせられた。

歌は元からあった線をなぞっていくかのように、時にはあえて上をくるりとひと回転するかのように、笑うように、泣くように、叫ぶように、届くように、丁寧に丁寧に重ねられている。

SEVENTEENのダンスは指先から物語が伝わってくるような気がする。彼らの練習量はそれぞれ身長の異なる彼らのジャンプの打点が毎回揃っていることから滲み出る。

ふにゃりという擬音がぴったりの顔で笑ったかと思えば、次の瞬間には大きく叫んで遠くまで連れて行ってくれる。覚悟、それから自負心たっぷりの目線をぐつぐつと煮詰めながら、恣意的に、時には無自覚に私たちを惑わせていた。

だから、SEVENTEENは芸術であったかと聞かれると、その答えはYESである。

それでも、私は、彼らのコンサートをエンターテインメントの最高傑作であったと呼びたい。

なぜなら、とてつもなく楽しかったからだ。私を幸せにしてくれたからだ。コンサートが終わった後、その惜しさより「楽しかった~~~!!!」という興奮が止まらなかった。



SEVENTEENの本質はエンターテインメントにある。

そして、そのエンターテインメントはパフォーマンス以外の時間にも宿っていた。SEVENTEENの今回の公演ではMCパートとパフォーマンスパートが分けられている。多くのコンサートであるような中盤のMCではなく、序盤に自己紹介してから、言葉通りノンストップでパフォーマンスが続き、本編ラストとアンコールでMCのようなトークコーナーが設けられていた。

これがほんと~~~に楽しかった。パフォーマンスパートが格式高く洗練された一級品の芸術を見ているようであったとすれば、MCパートは彼らの人間的な魅力がドームを満たし、溢れだすような時間だった。

日本での公演は様々な制限の下行われた公演だった。
コロナウイルスがまだ脅威をふるう2022年、歓声をだすことはできない状況だった。名物(?)の高速名前コールももうしばらくおあずけである。アジュナイスでのジャンプも難しい。
他国のような「自由」な公演ではなかったかもしれない。

けれど、メンバーが「声が聴けなくて残念だけど~」と一言言ってくれるだけで、本当に救われた。運営の言うことは聞かないけど、推しの言うことは聞く戦闘部族のオタクが、自分たちで声を出すことを抑制できるから。そして、その残念な気持ちを理解し合えていることも実感できた。

アジュナイスでは、ジャンプの代わりに、盛り上がる方法として、バウンスを提案してくれた。
これまでのことがこれまで通りできないなら、新しい方法を考えてくれる彼らが好きだ。これからもそうやって、彼らと新しいやり方を模索しながら応援していきたいと思う。

MCでは、無茶ぶりでいろんな人がバッターボックスに立つ。愛嬌をやらされる時もあれば、次の曲のヒントを出さなければいけない時もある。ランダムに振られる時に、振るメンバーからの「しゃべってない人いないかな」という細やかな気づかいが少し透けて、そんなやさしさも大好きだと思う。みんな何かしらして、特大ホームランで会場大ウケの時もあるし、うまくいかない時もある。そんなときも、それを流すのではなくてメンバー全員で全力で拾いに行くのだ。そのやさしさは見る側に安心感を与えてくれる。SEVENTEENの安心感の一端はここにあると思う。それから、うまくいったときは何度も擦る。いろんなメンバーで同じことを見せてくれる。かわいい。あまりにも擦るから、途中から、SEVENTEENとCaratだけに通じる秘密の合言葉みたいになって何だかくすぐったい。それ、最高じゃん(CV:DK)

帰りたくない!という気持ちを汲み取ってくれるかのように、何度も繰り返されるアンコール。飛び跳ねる会場。うねるペンライトの海。時折、不可抗力のように漏れ出る悲鳴。メンバーに応援されながら作る会場のウエーブ、何度も、何度も繰り返されるアンコール。

SEVENTEENは誰もおいていかない。
会場をひとつに、作り上げるエンターテインメントだった。

ここからは少し私の推しであるエスクプスさんの話をさせてほしい。

彼のメントの中で印象的だった言葉がある。
「何かを守るには「力」が必要だ」という言葉である。
また別の公演では「実は会えなかった間、Caratが離れていかないか不安だった、すぐに駆け出して会いに行きたかった」ということも言っていた。

彼の不安と覚悟が同時に表出される言葉たちが大好きだ。
表現を選ばずに言えば、「人間」を推しているという実感があるから。
その儚さや揺らぎ、葛藤にとても惹かれるし、それでもなお12人を率いるリーダーとして立つ姿に勝手に力を貰っている。

彼は、本来甘えん坊の末っ子体質だ。
リーダーでいるには少し心が柔らかすぎるし、自分一人であまりにも大きいものを背負おうとするところがあるように見える。

だから、私たちにもその荷物を少しだけ分けてもらえないだろうかと願いたくなってしまう。

私たちにも、彼を、彼らを守れるだけの「力」が欲しい。

わたしには、様々な場で応援していくことしかできないのだけれど、それが少しでも力になればいいなと願う。彼が、暗い帰り道も安心できるようにと思いやり、作ってくれたまばゆいほどの光を放つペンライトが彼らがゆく未知の道を照らす松明になれればいいなと願う。


SEVENTEENは夢だと公言していた東京ドームに立った。

そこで、次の夢は日産スタジアムでのコンサートだと明言した。

きっと彼らなら、素晴らしい景色を作り出せるだろうという確信じみた期待と共に、「また今度」の話ができることってどれほど幸せなのだろうと考えた。

あと何回できるかなとも考えて、落ち込んだ。
時間は誰にでも平等で、そうであるから残酷だ。
じりじりと確かに彼らにもタイムリミットが迫る。
この間、別の推しに「おかえり」を言ったばかりなのに、彼らにも避けられない二年間がやってくるのだということを信じたくない自分がいる。

「待つ」ということは不確かだ。
不確かだから不安だ。
でも、不安だからこそ、「今」を後悔したくないと思う。
彼らの「今」を自分なりのペースで見つめていたいと思う。

ここに残すのは私の中でこっそりと決めた覚悟で、noteという公共の場で顔も知らない誰かに届くかもしれないメガホンを持ちながら叫ぶ覚悟だ。

明日のことは、来年のことは何もわからないけど、今の私はこうでありたいと思っているという記録でもある。

私には17歳のころのような弾ける若さはないけれど、17歳のころより自由になった。自分の時間が作れて、自分の裁量でお金を使えるようになった。
だから、時間が過ぎることは悪いことばかりじゃない、と信じたい。

いつか彼らとの思い出が「過去」になる日が来ても、その時を思い出し、懐かしむ度に、彼らの顔や楽曲と共に暖かな記憶で溢れていればいい。

けれど、今は、彼らのイメージカラーのように朝と夜の間でもう少し、夢を見ていたい。

あの日、東京ドームに立っていた13人は夢で、夢で、夢では無いのだから。

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