この歌は、死にそうなほど追い詰められた人のためにある 透明声彩/YuNi
先日、うっかり自殺しそうになった。
朝、仕事に向かうための駅のホームで上り電車を待っていた。期日のある案件で切羽詰まっているなかで、上司に数週間分の進捗を根本から否定され、補正のため急激な進捗を要求されていた。毎週報告を重ねていたものを、今になって、である。厳しかった。ホームのアナウンスが鳴り、ちょうど入線してくる列車を見ながら、「いま、2、3歩進んで体を前に倒せば、もう行かなくても済むんだよな……」と考えた。それほどにまで追い詰められていた。それで私が実際に死ななかったのは、たまたま黄色い線から一人分後ろに立っていたことと、自分が優柔不断な性格だったからに過ぎない。
今思い返せば、あのタイミングで死ぬことは考えられなかった。少し冷静になって考えてみれば、せっかく死ぬのならまだやっていないことが山ほどあったのだ。自分は自殺しない理由として定期的に確認していることがあるのだが、それは「連載中の大好きなあの漫画がまだ完結していないからそれまで死ねない」というものだ。ちなみにまだ完結していない。それに、死んでも現世の金は持ち越せないのだから、全部使ってしまうのが筋である。たんまりとではないが、何日か遊べるくらいにはまだ残っていた。それに何より、右肩にかけたバッグには、昨日買ったばかりで読みかけの新刊が入っていたのだ。1年ぶりの新刊である。あの時点での死は全く合理的な選択ではなかった。
にもかかわらず、今死んでしまえばラクになるのかななどと企図してしまったのは、周りが見えなくなるまで、それほどまで自分が追い詰められていたのだなと、その時をくぐり抜けた今となっては思う。定期的に自殺しない理由を確認していたニンゲンでさえ、いざそのときになってみると何も思い出せないのだ。少し考えれば、現世に留まる理由がいくらでも思いつくはずなのに、しかしやり残していることを何も思い起こすことが出来ない。追い込まれたニンゲンの思考状態とはそういうものだった。私が生きているのは単なる偶然である。たまたま生きながらえてしまった。
運良く乗り込んだ列車から、「いま飛び込みかけたわあはは」みたいなツイートをしたら、すぐにフォロワーのとある方から、心配してくれるリプライが届いた。そのリプライのおかげで、あのとき電車の中で、生きていこうって思えたし、そのあと仕事に行く勇気が持てた。とても感謝している。ありがとう。
それから、電車を乗り換えて、何気なくYoutubeを開いて、久々に聴いてみようと思ったのが、YuNiの「透明声彩」だった。空いた車内で角席に座って聴いていたら、歌詞があまりにも自然に心に沁み込んでいって、そのまま静かに泣いてしまった。そして気付いた。「透明声彩」は、追い詰められて今にも死んでしまいそうな誰かのための歌なんだと。
「透明声彩」の第一印象
「透明声彩」のMVを見た第一印象は何だっただろうか。私には、YuNiのもつ透明感のある美しさと、「私はここにいるんだ」という心が感じられた。映像には、透明感を表す白と、YoutubeやSNS(Twitter、インスタ、LINE)といった現代的なツールをイメージさせる表現が用いられている。歌詞について覚えていることといえば、「世界中が味方じゃないから」というサビ入りの言葉が、とても孤独でキャッチーだなと思ったくらいだ。まとめると、「透明声彩」の最初の印象、「さあ読解してやるぞ」という気持ち無しにこの曲を鑑賞したときの印象は、「今風で強くてきれい」といったような感じだった。
「今風で強くてきれい」というメッセージは、この曲の第一の主張として、リスナーに伝わるならばそれで十分なように思う。この曲はYuNiのデビューシングルであり、曲の主題も重要だが、ぱっと聞いたときのアーティスト本人の雰囲気を知ってもらうことの方が大事だろうからだ。
しかし、だからこの曲の歌詞は無意味な文字列かというと、決してそんなことはない。MVの映像とはあまりリンクしないがゆえに、しっかり読み込もうという意思のある者にしか開かれない、別のストーリーが用意されている。もっとも、私がそれを深く感じ取れたのは歌詞を読み込もうとしたからではなく、この歌詞の境遇にぴったり沿った状況に置かれたからなのだが。
追い詰められた「誰か」が得た救い
「透明声彩」は、追い詰められて今にも死んでしまいそうな「誰か」が主人公である。そして、その人の心を照らすための歌である。だから、物語の主人公との距離が近づいたあの日、列車に身を投げそうになったときの自分が聴いたとき、すっと心に沁み込んできたのだ。
順に歌詞を追っていこう。1番の第一連(Aメロ)は以下だ。
単純な言葉が溢(こぼ)れた
曖昧なまま流れてく
ありきたりなこの毎日で
本当は気付いて欲しいだけ
第一連では、毎日がどんなものであるかという現状認識と、誰かの思いがひとつ、歌われている。が、これだけでは補うべき言葉が広すぎて分からない。続けて第二連まで見てみよう。
未完成な感情が誰かの身体 動かした
理想的な安寧は
なかなか遠いみたいだ
ああ 胸が痛いな
ここで人物が登場する。未完成な感情に動かされた「誰か」だ。「誰か」と言っているが、それは歌っている「私」のことだ。その「私」の気持ちが続けて歌詞に現れており、そのままサビに繋がってゆく。構図を見ると、歌い出しから、まず広い視点から時間的な舞台設定と誰かの思いを登場させ、続けて「誰か」の行動(=身体)という具体性を持った対象へぐっと意識をスライドさせている。物語を語るうえで、とても素敵な書き出しだと思う。
「誰か」=「私」は、現在自分が思い描くような穏やかな世界に居らず、胸を痛めている。曖昧なまま、誰も正解や責任や信じるべきものを教えてくれない、複雑で掴みどころのない世界が今日も流れてゆく、そんなことが普通になった日々のなか。「私」もまた、穏やかで落ち着いた心ではないのに、どうしたらよいか分からず、ただただ胸が痛い。参ってしまっている。冷静に自分を見つめる余裕なんてないから、自分の感情すらうまく言語化できない。だから「未完成な感情」と形容されている。そんな感情によって動かされた「私」がここにいるってことに、気付いてほしい。世界の複雑さに対して、「私」の思いは単純な言葉だ。気付いてほしいのだ。私の存在に。
世界中が味方じゃないから
孤独な命で 今 歌を歌うんだ
透明な声は きっと からっぽじゃない
向かい風 強く打たれて
竦んだ脚を叩いた
どんな暗闇も超えて進む力を見出したい
そして、印象的な始まりのサビがやってくる。「世界中が味方じゃない」。味方じゃないことと敵であることはイコールではないが、しかし今まわりにいる人々が「私」に無関心で、何の興味も持っていないことも事実だ。だから孤独。孤立無援な孤独。もしかすると視界に入っていないだけで、自分を応援してくれる人がいるのかもしれないが、その姿がいま目に映らないがゆえに、「孤独な命」を感じているのである。まさに、心が追い詰められ、限界になった者の思考をなぞっている。
現代は、高度に個人化が進んだ社会だ。ちょっと外に出れば、たちまち自分に無関心な大勢の他者にかこまれる。普段はそんなこと気にもとめないし、彼らが自分にかまって来ないことも、面倒がなくてラクでいいやと思うものだ。しかし、追い詰められてくると、目線が変わってくる。こんなにも心が弱っている「私」が今ここにいるのに、誰もかまってくれない。たくさんの人々が、まるで「私」がいないかのように振る舞って、勝手に世界が回っていく。「私」無しで世界が問題なく成立するさまを見せつけられる。それによって、味方のいない孤独がより強調されるのだ。
そんな孤独のなかで、自分の声は「きっとからっぽじゃない」と歌うことは、祈りに近いものとなるだろう。自分の声、透明な声にも意味があるのだと、信じるための発声。言霊。「きっと」という副詞は言葉として非常に面白くて、辞書を引くと「間違いないと確信している気持ち」と出てくるが、皆さんも実感があろう、実際に使うとき確信なんてほとんどない。むしろ、「確信がある『ということにしたい』気持ち」を表現していると言ったほうが適切だ。確信はないけど確信したい、しかし確信するための手立てが何もない。そんな状況で人は、ただ祈る。
めぐるめぐる時代の狭間
戸惑い迷い彷徨うの
手探りばかりの毎日も
私は素直でいたいな
2番第一連は、サビのあと、落ち着いてから改めて舞台設定を歌い直すことから始まる。「私は素直でいたいな」という言葉は、先ほどと同様、でも現実は素直でいられないことを表している。
鮮やかな情景に
ひたすら音を重ねた
少しずつ滲んで
ぽたぽた花が咲いた
ああ 儚い存在だ
あの日の私はここで泣いてしまった。情景が胸にありありと浮かんだのである。私が思うに、この二番第二連が物語のターニングポイントとなる、曲中で最も重要な部分である。ここではすごいことが起きているのだ。
追い詰められた者がするべきことは何であろうか。それは、散歩である。自分の興味を奪うような、自分に興味を持たない他者のことや自分を苦しめる要因となっている物事を忘れてさせてくれるような、そんな新鮮さのある散歩だ。そんな「鮮やかな情景」を前にして、「私」はひたすらに音を重ねた。見えるもの、聞こえるもの、触れられるものを通して感じられるこの世界の鮮やかさに、自分の意識を重ね合わせた。
すると、世界が「少しずつ滲んで」きたのだ。「ぽたぽた」と。鮮やかな世界、生きているに値すると感じられるような美しさに触れたことで、涙が溢れてきて、視界が滲んだ。ぽたぽたと涙がこぼれ落ちて、その雫が地面に落ち、波紋が広がって、花が咲いた。つらく、進むべき道もなく、追い詰められ暗闇にいた心が一転、真っ白で明るい、花咲く美しい世界へといざなわれたのだ。なんて綺麗な情景描写だろう。
この連のMVでは、スマホのカメラ越しにYuNiが様々な「鮮やかな情景」を旅する様子が描かれ、続いてインスタ風の画面でも集約的に表現されている。ここが聴かせどころだからこそ、リソースを割いて丁寧な描写がなされているのだろう。
そして、「鮮やかな情景」を前にしてゆっくりと感じられた。「この美しい世界に比べて、自分はなんと儚い存在であろうか」と。これは、「私」に対する肯定の言葉だ。暗闇を彷徨っていた「私」は、こうしてこの世界で生き続けることを選べたのだ。
このあとは、2番サビとラスサビが待っている。ここから先では、「私」が力強く前へ踏み出していく姿が描かれている。
果てない厖大な未来
小さな光に願い 歌を歌うんだ
透明な声は きっと からっぽじゃない
ぼやけて霞む足元
真っ新な線 描いて
道を作れば そう
もう何も怖くない 走り出した
「果てない厖大な未来」に気付いた「私」は、自分で「足元」に「真っ新な線」を描いて、「もう何も怖くない」と「走り出」す。そして、そんな未来が消えないよう、ずっと歌い続けることを誓う。本論としては、2番第二連の救いに主眼を置きたいので、ここで歌詞を追うことは終わりにしよう。
「透明」が持つ2つの意味
YuNiの歌声は、「透明感がある」という形容をされる。この場合の「透明」とは、光を反射するクリスタルのようにキラキラと透き通っていて綺麗だ、という意味だ。では、歌詞中の「透明な声」もその意味でしかないのだろうか? 否、透明にはもう1つの意味が込められているように思う。
それは、文字通り「見えない」ということだ。1番第一連で「本当は気付いて欲しいだけ」とある通り、「私」の存在、「私」の苦しみは気付かれていない。誰からも関心を持たれていないから「世界中が味方じゃない」。つまり、「私」の存在は社会から透明化され、見つけてもらえていないのだ。
誰からも見つけてもらえない「透明な声」。だから、たとえ「透明」でも、それでも中身までは「からっぽじゃない」はずだと信じて歌声にする。これが1番サビの祈りの言葉だ。
2番サビでは、サビ前に救いが得られている。鮮やかな情景に「小さな光」を見出したから、願いを込めて歌を歌う。「透明な声はきっと からっぽじゃない」という言葉は、祈りから確信へと変化する。1番と同じフレーズも、場面が変われば含む意味も変わる。
そして、ラスサビでは、さらにドラマチックな展開になる。
見上げた空は青くて
飲み込んだ思い 溶かした
混ざり合う度に
透明な声が そっと色づいた
果てない厖大な未来 消えないように
ずっと歌い続けよう
いつまでも 何処までも
響いてゆけ
響いてゆけ
「見上げた空は青くて」。曲前半の暗く追い詰められた心持ちと比べて、とても前向きになったことがすぐに分かる。空を見上げて、その青さをしみじみと実感できる。そんなところまで、心は回復している。そして、心に残った色々な思い、言えずに飲み込んだ思いたちは、空の青さを見て上向いた心のなかで溶けていく。混ざり合う度に「透明な声がそっと色づい」てゆく。
色の付いた声は、もう見えなくなることがない。「透明な声」が、誰かの胸に届く。気付いてもらえる。だから、「ずっと歌い続けよう」と、「誰か」=「私」=YuNiは決意するのだ。
まとめ
YuNiの「透明声彩」は、現代社会の間隙に追い詰められ、今にも死んでしまいそうな人にこそ聴いてもらいたい。この「透明」な声は、現代社会に「透明」化されたあなたの心を見つけて照らし出し、絶望から一歩進み出すための道しるべとなってくれることだろう。
(※本記事内の画像はすべて「透明声彩」のMVより引用。)
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