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不完全で満たされない世界を、だからこそ愛する 箱庭の幸福/田所あずさ

「ひとりでしあわせなんてむずかしいね。」

2022年冬、「リアデイルの大地にて」というアニメが放映されている。そのエンディング曲である田所あずさの「箱庭の幸福」が、良い。なんてことない風景の中で地べたに座り込んだ私が泣きながら、目の前にいるあの子に微笑みかけているような曲である。

完全な世界

生きていると、この世の虚しさ悲しさ不完全さにやりきれない気持ちを抱くことが多い。例えば自分を見ると、なんで私は美形じゃないのか、なんで私は頭が良くないのか、なんで私は上手く喋れないのか、なんで私は社会に向いていないのか……。自分以外でも、気に入らない人、勝手に枯れる植木、薄給、社会構造、などなど。この世はあまりに未完成で不完全だ。

現実を生きることに疲れてしまったとき、私たちは創作の世界へと心をトリップさせる。創作の世界、それは全てのピースがぴったりとはまった完全な世界である。マンガや小説、イラスト、ゲームなどといった二次元空間がその筆頭だろう。これら二次元空間は、オリジナルがデータとして保管されている限り、その性質が変容することが一切ない。すべてが作者の思い通りに構築されていて、完全で欠陥がない。瑕疵に見える物語の悪役ですら、作者に必要とされたからこそ登場する。比類なき完全性が、創作の世界の特徴である。

しあわせのかたち 背伸びもまぜて描いた
永遠に枯れることのない 花のクラウン
原色の箱庭の中 あらそいはないの
退屈もないの ミラクルもちりばめてさ

1番第1連は、視点主(「私」とでもしておこうか)が完全な世界を創ったことを歌っている。この世は楽しいこと嬉しいことだけでなく、つらいこと悲しいこともやってくる。だったら、自分の理想の「しあわせのかたち」を描いてそこに住めば良いのでは? 住人たる自分もちょっと理想化(=背伸び)して描いてみる。完全性が永遠に保たれた世界、すべて思い通りの世界で「私」は王(=クラウンを頂く者)だ。自分の思うしあわせをそのままに(=原色で)描いた世界では、争いのようなネガティブ感情を想起するイベントは起こらない。と同時に、「そんな完璧な世界、退屈じゃない?」という指摘にもカウンターを用意してある。自分でもびっくりするようなミラクルも散りばめてあるからね、と。

こぼしたの、あの子 バケツ
雨なんていらないのに

「私」の創った完全なマイワールドの、保たれた秩序を壊しにかかる「あの子」の登場である。

つま先だちの明日はきれい
そのはずだった なのに
ケンカ、のち 滲んでみえる景色も
なかなおりの散歩道もそう
あわいに溶けていく グラデーション
未来、濡れていいから あの子にいてほしい
ひとりで しあわせなんて むずかしいね

理想化された(=つま先だちの)「私」と理想の世界、これで綺麗に完成されたはずだったのに、それに水をぶっかけてきた「あの子」との泣きながらのケンカ、そして仲直り。

もともとこの箱庭は原色で描いていたが、原色は赤や青など色味が鮮やかではっきりしていることが特徴である。それに水をかけることで、(まあ実際に絵に水をかけたら大惨事じゃ済まないのだが、)原色が溶けて淡い色合いになり、隣の色とも混ざってグラデーションを見せるようになる。すべてが「私」の意図通りに並べられ把握された原色が、グラデーションという曖昧で掴みきれない色味の連続的な変化に取って代わられた。

この予想外さが、実は心地良かったのだ。先ほど「私」は、退屈の無いよう箱庭にはミラクルも散りばめておいたと言っていた。しかし、自分で作り上げた世界において、本質的な驚きというものは存在しない。例えばウィトゲンシュタインは『論考』で、もし世界をその根源まで完全に把握し尽くすことが出来たなら、それらの演繹によって物事はすべて記述可能であるから、世界には何の驚きも存在しないと述べた。同様に、すべてが「私」の意図によるものなら、どんなミラクルも「私」の想定内のことであり、驚きは無いのだ。「あの子」のような、自分の考えの外からやって来る者の存在こそが、それが良いものにしろ悪いものにしろ、「私」の世界に驚きをもたらす。そしてそこから得られる新鮮な発見のなかに、しあわせが眠っている。

だから、「ひとりでしあわせなんてむずかしいね」と呟くのだ。

作られた物語に出来ないこと

2番は、1番の主題を再確認しながら、「あの子」との関係が深まっていく。

しあわせにくらしました。のあと
すえながく、はどれくらいなの?
最後のページが閉じられたら
ぽつんとひとり

私はよくマンガを読むが、登場人物たちの幸せで完成された世界をじっくりと堪能し終わって本を閉じると、満足感と共に寂しさを覚えてしまうタチの人間である。美しく完全な世界がさっきまで広がっていたのに、置いて行かれたような感覚。もっと続いてよ。続きの世界を見せてよ。しかし、その本はそこで終わりなのだ。そして、これが物語の限界である。

物語世界の限界とは、それがどんなに完璧で完成された完全な世界であったとしても、物語自身に続きを紡ぐ力が無いことである。同じ物語を再び繰り返し上演してもよいが、いずれは刺激が無くなって驚きも失せてしまう。これまで多くの読者が二次創作という沼へ進んでいったのは、ひとえにこの限界に抗うためである。

2番での「あの子」は、「私」にごめんねと言ってお菓子をくれるが、今度はクレヨンを持ってきて、塗りつぶして夜を連れてくる。「あの子」のパワフルな積極性にちょっとびっくりする笑。

つま先だちの明日はきれい
手にしたなら儚い
思いがけないこと 連れてくるのは
ちがう誰かになって世界を
見渡してみるような 静かな夜
塗りつぶしていいから あの子にいてほしい
ひとりでしあわせなんて なれないから

クレヨンと夜、で私が思い出したのは花火の描き方だ。まず画用紙に何色ものクレヨンを使って鮮やかに塗りたくる。次にそれを上から黒クレヨンで塗りつぶす。そして、竹串などの尖ったもので黒クレヨンを削ると、削った箇所だけ下の鮮やかな色合いが顔を出し、花火のようにみえる。こういう描き方をスクラッチアートと呼ぶらしい。

実際にやってみると、「こんな全部黒で塗りつぶしてちゃっていいのかな……」と不安になるのだが、削ると黒の下から綺麗に花火が出てくるのでびっくりする。クレヨンを渡されて、自分でこの描き方を思いつくことは一生無かっただろう。全部塗りつぶしちゃおうなんて思わないだろうからだ。このような思いがけないことは、自分ひとりの視点では起き得ない。自分の視点を一度塗りつぶして、ちがう誰かの視点から見ることで新たな発見が生まれる。

箱庭にさよなら

あどけないしあわせ もしかしたら
叶ってしまっていたなら
あの子、遠ざけていたまま
それは取り戻せない、さよなら

ラスサビ前、「私」ははっきりと自覚する。しあわせは箱庭の中にずっといて得られるようなものではなく、楽しいことも悲しいことも同時につれてくる「あの子」のような存在がいてこそのものなのだと。「あの子」のいる世界を受け入れるために、「私」は「箱庭」にお別れを告げなければならない。高まっていくヴォーカルの熱量。

美しく完全な世界に、決意を込めて「さよなら」。

つま先だちの明日はきれい
そのはずだった なのに
ケンカ、のち滲んで見える景色と
なかなおりを抱きしめる夜の
眠りに溶けていく グラデーション
世界に出逢えるのは あの子がいるから
ひとりでしあわせになるのは むずかしいね

こうして、自分だけの完璧で完成された箱庭に住むことをやめた「私」は、この世界で眠りにつく。ラスサビの歌声はまるで泣き笑いのように切なく、私の胸を打つ。

アニメのED映像もいいぞ

「箱庭の幸福」は、アニメ「リアデイルの大地にて」でEDとして用いられている。このED映像の世界観もすごく良い。

サムネイルの少女は1~2話に登場する宿屋の娘のリットちゃん。リットちゃんは、宿泊客である主人公のケーナと仲良くなり、お別れに際してまた会える約束の証として星型の髪飾りをもらっている。これをふまえてEDの映像を見ていくことにしよう。

初め、リットちゃんは「花のクラウン」を編んでいる。ここでのリットちゃんは髪飾りをしていない。ところが次、「雨」がふって窓の外を見やるシーンでは髪飾りを付けているのだ。歌詞に沿って、リットちゃんが視点主の「私」、「雨」を降らせてリットちゃんの世界に飛び込んできた「あの子」がケーナということになる。その後の花畑での再会シーン、2人で話す「散歩道」と、曲の世界を反映した実に見事な映像表現に仕上がっている。

一般に、ED映像はOPに比べて作画コストが抑えられ、一枚絵や繰り返し映像で作られることが多い。でも、ただやみくもにぬるぬる動けば良い映像なのかと言えばそうではない。このEDのように、曲の世界観を汲んだしっとりとした映像表現を見ると、曲もリットちゃんも愛されてるなあと感じる。

めちゃくちゃ好きだ。

まとめ

人は、ときに理不尽でどうしようもない現実に嫌気が差して、自分の考える理想の創作世界に住みたくなる。ところが、そこもまた永遠の楽園などではなくて、しあわせは儚く消えてしまうものだ。結局、人には予想外を連れてくる別の存在が必要で、その人がいてくれるからこそしあわせになる。

ままならない不完全な世界、しょうもない未完成な自分、同様に未完成な他人を、そのままで愛すること。それが、この世界の素朴なしあわせだった。そう気付いたとき、完璧な世界に住めない悲しさと、未完成で有り続けることへの安堵と、もうしあわせを手にしていることへの切なさとが同時にこみ上げてきて、隣にいるあの子に泣きながら微笑んでこう言うのだ。

ひとりでしあわせになるのは、むずかしいね。


(サムネイルは、アニメのED映像より。)

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