うっせぇわ,を聴いて,自分の中の矛盾に気づく

Adoの「うっせぇわ」が1億回再生いきそうな勢いで,御多分に漏れずたまに聞いて歌ったりしている.曲と歌い方が耳につきやすい.うまいんだろう.

それでも,歌詞にはあまり共感できない.中2病っぽいとかいう点じゃなくて,まずそもそも社会人のタブー等に縛られて反感を感じたり息苦しいと感じたことがない.と書いて,そう言えば若い頃,恐怖や不安は感じていたのを思い出した.適応できないのはどうしてなのかわからず,でも自分を変えるということもしなかった.自分は悪くないと信じていたし,変えればいいのではということを思いつきもしなかった.そんな風にもがいていた時期は社会人になって3年程あったが,その内運よく受入れられて,そのままなし崩しである.仕事以外だと,そこそこいい年になるまで自分が,うっせぇわ,と感じていることに気が付けなかったし,気が付いたなら,うっせぇわ,と言ってしまう.意識的に,うっせぇわ,と思いながらそれを言わずにぐっと我慢している,という時期がなかったのである.つまり,うっせぇわ,が今の若者の気分を代弁しているなら,今の若者よりも遥かに抑圧的で自責的だったのだ.そうい意味で,今の若い人は健康的なんだなあと見える.
「絶対絶対現代の代弁者は私やろがい」なんて思えたことは今まで一度もない.同世代と連帯を感じられずに,はみ出し者であると常に感じてきた.因みに今は,自分と似た属性の人が周りにいないので,どうしたって異邦人である.はみ出したくてこうなったんじゃないけど,流されてきたらこうなっていた.
客観的な属性に隠されているが,しばしば波のように「もう許されない」という不安感に襲われることがある.今はまだ見逃がされているが,いつか見つかってしまう.お前は人間として踏み外している.「内なる罰する目」はいつも監視している.

しかし同時に,世界に対する信頼,のようなものも常にあることに思い至る.この自分の持っている信頼感はなんだろう.通奏低音のようにある不安の奥にある,絶対的な安心感のようなもの.結局は落ちても大丈夫,みたいな感じ.自分はメインストリームにいない,自分は外れ者だと感じているのに,同時に,他者・世界の良さを無条件に信じて投げ出せる,そういう感じ.多分他者には良い所も良くない所もあって,投げ出したら傷つけられることもある.それでも良い方に賭けられる,信じない,何も期待しない,と言わずに踏み出せる,勇気のもと.

あぁ,これをあの人は羨ましがっていたのだろうか.
あの人はかつて,私は世界を自己の延長として捉えている,と言っていた.確かに,世界の中に自分と共有できるもの,理解できるものがある,というのは信じている気がする.(「今はまだ」理解できないものも勿論ある.)逆に自分も誰かには理解される,と信じている.

それは多分,自分を「良きもの」と信じられていることと多分関係している.自分は「もう許されない」ものであると同時に絶対的な「良きもの」でもある.矛盾しているけれど,正直な感触.

あぁ,今日はここまで.逃げられてしまった.
久し振りに,marillion の made again を聴いた.


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