大斎節うつ?いいえ、ほんとの生き方は
こんにちは。
きょうは、大斎節第一主日です。
紫色が教会で使われる季節になりました。紫になるとなんだか、心がひきしまるし、慎み深く過ごさなければなぁという気持ちになります。
中学時代、当時のチャプレンであった先生がよく、ご自分のストールをもちあげて、色の説明をされてました。そしてクイズを出されました。絵の具で、紫をつくるには何色と何色をまぜたらいいでしょうか。と。こどもたちはくちぐちに答えます。赤と青!
赤を見ると、紅白まんじゅうや炎や血を思います。気持ちが昂ったり、よろこんだりするときにも使う色なのではないかなと思います。一方青は、こころをしずめて、空をみあげる色なのではないかと感じます。聖路加国際病院のチャペルのステンドグラスは、青くて、何フロア分もふきぬけになっているので自然とそのガラスを通して空を見上げます。その空にはわたしたちが見送った人たちを思うのかもしれません。悲しいときにもブルーなんて言ったりします。
大斎節のむらさきは、そんな喜びも悲しみもすべてが溶け合った色だと思うのです。わたしたちのいのちそのものが、神さまに抱きとめられ、はぐくまれてきたことに、もう一度心を向けるときであって、それが神様に立ち返るということの一つの部分なのではないかと思います。
東京教区の主教はあるとき、「神さまにすべてをささげてください。あなたの罪までも」といわれました。なんと大胆な信仰に基づいた勧めだろうと思います。
罪、という言葉を考える時にこんなことやあんなことをしましたという罪悪ももしかしたら含まれるのかもしれないけれども、的外れということばがもともとの所にあることを考えると、わたしたちの存在を呼び出して、生かしている神様から方向がずれて、自分で作りだした何ものかを頼りにしたり、なにかゆらいでいるものを頼りにしたりして、どこか不安になりもやもやしていることにもう一度気づくことなのではないかと思わされます。そして、もっと根源的にこのわたしを生かしているものと深く響き合っていく恵みのときが、この大斎節なのではないでしょうか。
わたしたちが不完全さに気づき、それさえもささげるとき、その足りないところから神様は入ってきてくださるし、行く先の方向もなおしてくださるのだと思います。そのためには、冬季集中お祈り期間が必要なのかもしれません。
わたしはよく、大学のチャプレンと、大斎節うつになるという話を共有していました。チャプレンもそうでした。こないだ生まれてきたことを記念したイエス様がもう亡くなってしまうし、自分は罪びとだという意識をあらたにするからです。今年も大斎節うつの季節がやってきた。テキトーにして自分の心を守ろう、と思っていた今日の矢先のことです。ふっと心の中にやってきたのが、エゼキエル書33章11節のこの言葉です。
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」
神さまはこの大斎節を、わたしたちに暗い気持ちでイースターに向かってなんとかやりすごす季節ではなく、心の春に向かってとびらをあけるときにしてほしい、わたしたちに生きてほしいとお望みなのです。イエス様がこの間生まれてこんどまた亡くなってしまわれるようですが、この冬は生きていても眠っていても、わたしたちと共にいてくださる主のやさしさを、心に深くしみわたらせていく集中お祈り期間なのかもしれません。
テサロニケの信徒への手紙5章には、「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです」とあります。起きているときも寝ているときも、生きているときも亡くなっているときも、主はわたしたちと共にいて、わたしたちは主とともに生きるのです。
灰の水曜日にはわたしたちはちりに返るという言葉とともに灰をかけていただきます。ちりに返ると言われるとなんだかもう死んだら終わりみたいに思ってしまったこともあったのですが、キリスト教の教えはそうではないでしょう。古い人、神さまがこのわたしを呼び出し、生かしているということから離れた古い人が終わり、キリストによってつくりかえられ、生き生きと生かされる新しいいのちへのとびらが、この季節なのでしょう。
生きていると思い通りにならないこともたくさんあって、世界中にも悲しみがたくさんあって、神さまなんでって言いたくなることがたくさんあります。キリスト者の祈りは、まさにそういう嘆きを神様に信頼してぶつけていくお祈りであって尊いのだと思います。ある教えは、あなたの思い通りになりますよ、いいことがたくさんありますよと言うかもしれませんが、そういうことも過ぎ去っていきます。イエス様は悪魔にまさにそのように言われました。思い通りになりますよ、と。しかしイエス様の根源には、そういう目先のことを超えて自分の存在を望んでいるおん父への信頼があったので、悪魔の言葉をしりぞけます。思い通りになんてならないけれども、それを引き受けたのがイエスでした。その生き方に、模範として勇気をいただくクリスチャンたちがずっと信仰をつないできました。
暗い気持ちというよりも、自分の中の古い人をみつめ、新しく変えられていく恵みの時にしたいと思います。ローマの信徒への手紙12章2節には、こんなことが書いてあります。「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
変えてくださるのは、自分ではなく、神さまなのです。
そして、神さまは、ほかでもないこのわたしたちひとりひとりが、立ち帰って、「生きる」ことをなによりもお喜びになるのだと、信じます。
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