願い・祈り

自分が感じた、祈りと願いの違いをメモとして残そうと思う。

母が昨年に亡くなりました。亡くなる前、彼女の肉体的精神的な苦しみを自分は感じることがしばしばありました。その苦しみを自分が感じるたびにとても苦しくなり、その状況から抜け出すためフラワーレメディを使っていたこともしばしばありました。特にお世話になったのはFESのヤロウ、Bachのオークやオリーブ、などです。使用しても、楽になりますが、母の苦しみが楽になることはなく、常に母を感じながらもどうすることもできませんでした。

自分の苦しみをどうにかしたい、としきりに願っていました。近くの神社仏閣に行った際にはそんなことを願ったりもしました。寝る前にも少し楽になりますようにと祈っていました。今考えると、祈るではなく苦しみが消えるように願っていた、のだとおもいます。その祈りはとても重く、祈りの先に届くのははるか先だなぁとぼんやりと思ったりもしましたが、願わずにはいられない状況(結構しんどい)でした。

ある日の真夜中、たいていは夜中に起きてしまうことが多く、その日も目が覚めてしまいました。あぁ、また目が覚めてしまった。そして胸が苦しいなと。ふと、その時に母の様子を感じ、あぁ、彼女もとても苦しんだ、どうにかしてこの苦しみから彼女が救われますように、少しでも楽になりますようにとまっすぐな気持ちを天に投げてみました。投げた、という言い方があっているのかはわかりませんが、とにかく彼女の苦しみが少しでも楽になるようにという「祈り」をした、自分のエゴ(苦しい自分の状況が少しでも楽になるようにという思い)や考えというものを横に置いて、ひたすら彼女の苦しみが楽になるようにということのみを「祈った」のです。すると、その祈りがものすごい速さで彼女に届いている実感がありました。いままでの願いの状態とは明らかに違う、まったく違う感覚がありました。祈りはまっすぐ届くのだ、ということがわかりました。祈りの状態と願いの状態は本当に違いがあるというのが理解できました。

今回の祈りは、なるべく「自分」を消すこと。「我」を消し、祈る対象の状態がよくなるように心を寄せるという感覚。

自分の状態がよくなるように祈ることもたびたびあるとは思うのですが、それらはあくまでも願いであって、祈りとは違う。自分は特に何かの信仰をもっているものではないのですが、祈りという行為はとても難しく、それを願いとしかとっていなかったというのがわかりました。

言葉にするのが難しい感覚、なので今つづっていることばが自分が感じた感覚と近いかというとうまく言えないのです。言葉が見つかったらまた書き直すかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?