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わたしが育児ノイローゼだった頃(小鳥を飼った話)

 白文鳥を飼っている。名前はさんごという。わたしは普段、さんごのことを「さんごちゃん」と呼んでいるため、以下の文章ではすべて彼女のことを「さんごちゃん」と呼称することにする。さんごちゃんは今年二歳になった。わたしの手の中で握られるのが大好きな可愛い子だ。とてもかわいい。メロメロである。さんごちゃんがいるから生活に潤いがあるし、もうさんごちゃんがいない生活は考えられない。手の中でうっとりする彼女を見ていると幸福を感じる。
 と、今でこそお互いに、思い思われる蜜月を送っている我々だが、さんごちゃんを飼い始めた頃、わたしはほんとうに育児ノイローゼだった。
 小鳥を飼うごときで何が育児かと思われるむきもあるだろうが、わたしはほんとうにノイローゼだったのである。
 以下は、わたしとさんごちゃんの戦いの記録である。

 1.発端

 小鳥を飼ってみたくなった。突然のことだった。職場にマジックが趣味の人がいて、その人が職場でマジックを披露するというので、ハトを連れてきたのである。
 真っ白なハトである。おとなしく手に乗ってくれる。
 かわいいよ、とその人は言った。確かに可愛かった。そうか、鳥って飼えるのか、とわたしは思った。
 昔から鳥が好きだったのだが、鳥を飼う、ということがあまり念頭になかったわたしの中に、「飼おうと思えば鳥は飼える」という事実が入ってきてしまった。
 そうか、鳥、飼えるのか。
 飼えるのかあ〜。
 それからなんとなく、鳥を飼うことについて調べてみたり、飼い方の本を読んでみたりした。実際にペットショップに行って、小鳥を眺めたりもした。とてもかわいい。けどうちのアパートはペットが禁止だから……と思おうとしたが諦めきれず、管理会社に確認をとった。
「あ、鳥くらいだったらいいですよ」
 いいのか……。
 いいんだ〜。
 それから3週間ほどは我慢した。仕事のストレスが爆発しかけていたある日、わたしは耐えられなくなりペットショップに向かった。それが新たなストレスの火種になるともしれず、である。

2.購入

 鳥を飼おう。飼うなら文鳥がよいであろう。
 色々と飼育本を読んだ結果、インコは呼び鳴きをする子が多いと聞くし、ストレスで毛引きをしてしまう子もいると聞く。何よりいろんなものをかじるというから賃貸には不向きであろう。わたしは大きな音が苦手なので、呼び鳴きがひどいと少々困ってしまうし、やはりここは文鳥だ。文鳥を買うぞ、と決めてペットショップにいくと、幸運なことにそこには文鳥の雛が何羽かいた。
 刺し餌朝夕と書かれた雛である。
 店員さんに、刺し餌朝夕の詳細について確認し、ついでに文鳥の声って……と尋ねてみる。
「全く鳴かないことはないですけど、そこまで大きな声ではないですよ」
 という答えにわたしは安心した。
 早速手に乗せさせてもらうと、ほんとうにとてもかわいい。
 どの子も手の上からすぐに床に飛び降りて行く中で、手からまったく離れない子がいた。ただひたすら、じっと手に乗っている。その様子を見て、うちに来る? とわたしは尋ねた。床ではしゃぎまわる他の文鳥たちの中で、じっと手に乗ってくれている、というのはこの子を飼うのに充分な理由であろう、と思われた。
 この子にします、と店員さんに告げて、店員さんから飼い方の説明を受けることになった。

 飼うことになった子は、刺し餌朝夕、である。朝と夕方に、粟玉という餌を人の手から食べさせてあげる必要がある、ということだ。エサの作り方を説明され、実際にあげてみますね、と店員さんが小鳥のくちばしに給餌器の先を近づけた。小鳥がぱかっとくちばしを開けて、けたたましい音量で、
 チュンチュンチュンチュン!!!!
 と鳴いた。賑やかなペットショップの中でも響き渡るほどの大きな声だった。
(この子はお腹が大きくなるまでこうやって鳴き続けるのだろうか……)
 小鳥の声はそれほど大きくない、と思い込んでいたわたしは一抹の不安を覚えた。
 家に帰るなり小鳥は、キャッキャッキャッキャッという声で激しく鳴きはじめる。
 しかしご飯はさっきペットショップで食べたばかりだ。これ以上ご飯をあげていいのかも分からない。小鳥が何を訴えているのかまったく分からない。
 今日はもう寝ようね……と声をかけて、わたしは小鳥のケージにタオルをかけ、部屋を暗くした。

3.苦闘

 何を訴えているのか分からないのだが、とにかく小鳥は毎日毎日鳴き続けた。仕事から帰るとキャンキャンキャンキャン! と何かを訴えてくるので、お腹が空いたよね、と、ご飯をあげる。ただ、それ以降の鳴き声についてはまったく分からない。
 ご飯の追加が欲しいのかな? とも思うが、ネットを見ると食べさせすぎると体調を崩すことがあると書かれている。怖い。
 1羽なのが寂しいのかな? とネットの知識を頼りに小鳥の前に鏡を置いてみるが、鏡には目もくれず鳴き続ける。
 わたしが台所で作業をはじめると、鳴き声はさらにひどくなる。こんなに鳴き続けて身体を壊さないのだろうかと思うほどの鳴き声である。
 その当時のアパートはキッチンと部屋の境目がなく、ケージを置いている位置から見ると、ちょうどわたしは背を向けて流しに向かっている姿勢になる。
 背中を向けてるのが寂しいのかな? と、ケージの位置を調整して流しに立つわたしの横顔が見えるようにしてみたが、鳴き声は変わらない。
 これ以降も小鳥は、わたしが台所に立つたびに鳴き続け、わたしは手を止めては、ごめんねごめんねと小鳥に言い聞かせる生活だった。
 小鳥を飼うまで、小鳥は虚空に向かってチュンチュンさえずっているイメージでいたのだが、実際に飼ってみると、小鳥……さんごちゃんは、明確にわたしに向けて何かを語りかけている。
 さんごちゃんの目はわたしの方に向いているし、さんごちゃんの声はわたしに何かを届けようとしている。なのに、その言いたいことがさっぱり分からない。
 分からないまま部屋の中はキャンキャンキャンキャン! という声でいっぱいになり、どうしたら鳴き止んでくれるのかも分からない。
 ネットを調べると、呼び鳴きという名前が出てくる。呼び鳴きをやめさせるにはしつけが必要らしい。鳴き止むまで姿の見えないところにいて、鳴くのをやめたら現れて褒めてやる。
 実践しようとしたのだが、さんごちゃんは鳴き止まない。ほんとうに鳴き止まない。キャンキャンという声には切れ目がない。
 わたしは途方にくれた。
 途方に暮れながら思う。明日は小鳥を健康診断に連れて行く。名前がないのはまずい。
 そう、ここに至ってわたしはまだ小鳥に名前を付けていなかった。というかそれどころではなかった。
 必死に名前を考えたが、「キャン」とか「キャンキャン」しか思い浮かばない。日々鳴き声に悩まされているため、彼女の特徴といえば鳴き声しか思いつかないのである。しかし、名前がキャンキャンではいかにもまずい。どうしよう。何か、何かないか。
 その時、くちばしの色が目に入った。珊瑚色をしていた。
「さんごにしよう」
 何も解決しないまま、彼女はさんごちゃんになった。

4 ペットホテル

 2週間ほどが経過しても、事態は何も進展していなかった。さんごちゃんは日々キャンキャン! と鳴き続け、わたしはごめんねと謝っていた。
 ケージの位置が気に入らないのかしらとケージの置き場所を変え、寂しいのかしらと部屋にいる間はなるべくそばにいるようにし、鏡のおもちゃやぬいぐるみなどを側に置いて寂しさの緩和を試みてみたりしたが、何一つ効果はなかった。
 ある日である。
 所要で一日外出することになった。さんごちゃんは刺し餌が必須のため、わたしはさんごちゃんをペットホテルに預けることにした。
 さんごちゃんを預けて日帰りで大阪に行き、次の日迎えに行く計画である。
 さんごちゃんを預けたあとの家の中は、しん……としていた。久方ぶりの静寂であった。
 あるべき静寂が戻ってきたような気がした。正直に白状すると、わたしはさんごちゃんを迎えに行きたくなかった。
 わたしはそう思うほど日々止まらない鳴き声に悩まされていたし、その原因がさっぱり分からないことに疲れていた。
 この言い方が酷いことを承知で書くと、これからこの日々がさんごちゃんの寿命分続くことを思うと絶望したし、どうして覚悟もないのに短絡的に文鳥を飼ってしまったのかと後悔もした。
 しかし、飼いたいと行って生き物を飼い、うるさいと言って放り出すなど鬼畜の所業である。わたしはわたしの短絡さの責任を取らなければならない。
 それに、さんごちゃんはかわいい。さんごちゃんはとてもかわいいのである。
 まだ飼って2週間なのに手に握られてくれる。一生懸命水浴びをしている姿を見ると幸せになる。さんごちゃんは、ほんとうにかわいい。
 迎えに行こう。迎えに行かなければならない。
 さんごちゃんを飼う上で、わたしにはもう一つ悩みがあった。
 さんごちゃんの一人餌が、まったく進まないのである。ペットショップで薦められたペレットをいつでもついばめるように置いていたのだが、まったく食べない。これではいつまでも刺し餌から卒業できないのでは?
 ここでまたわたしはネットを調べて、一人餌の練習にいいとされている粟穂を買った。粟穂を買ってから、ペットショップに向かった。
 さんごちゃんを連れてきたペットショップのお姉さんは、とても疲れていた。
「さんごちゃん、ほんとうにかわいい。ほんとうにかわいいんですけど……ご飯くれが……すごくて……」
 お姉さんは、ふう、と深いため息をついた。
 その時だ。
 わたしの中の憑きものが落ちたような気がした。
 ペットショップのお姉さんは、ペットを扱うプロだ。そのお姉さんをこんなに疲弊させるほど、さんごちゃんの鳴き声はすごいのだ。
 わたしはずっと、覚悟もないのにさんごちゃんを飼ってしまった自責の念に悩まされてきた。
 だって、欲しいと言って飼って、鳴いたらうるさいと悩むなんて自分勝手が過ぎるだろう。鳴くのは小鳥の自然の摂理であり、それを受け入れられないわたしの心が狭い。
 しかし今、ペットショップのお姉さんは疲れている。プロでも疲れるのだ。
 わたしは疲れてよかったのでは……?
 ありがとうございました、とわたしはさんごちゃんを受け取った。
 帰って、今日はおやつがあるよ、と粟穂をケージの中に入れた。
 さんごちゃんは凄い勢いで、それを食べた。

5.光明

 えっすごい食べてる……。一人餌の練習とか必要ないくらいがつがつ食べてる……。ペレットなんか一口も食べてなかったのに……。
 粟穂にがっつくさんごちゃんの様子を見ながら、ピンときた。
 もしかして、ペレットがお気に召していなかった……!? 朝夕刺し餌と言いながら、昼間かたくなにペレットに口を付けなかったから、もしかしていつもお腹を空かせていた……!?
 調べると、ペレットは鳥によって好みが分かれ、まったく食べない子もいるという。ある特定のペレットだけ食べる子もいるという。
 ちなみにわたしは、できればさんごちゃんをペレット飼育したかった。ペットショップのお兄さんもお医者さんもその方がいいと言っていたし、あまりスーパーに行く生活をしていないため、さんごちゃんにいつも新鮮な野菜をお届けできるわけではないからだ。
 シードは栄養が偏るという。できればペレットを主食にしていただいて、たまにおやつとしてシードや野菜や果物を食していただきたい。
 粟穂にがっついて満腹になったさんごちゃんは、キャンキャンとは言わなかった。
 研究だ、とわたしは思った。粟穂で一人餌を練習してもらいつつ、さんごちゃんが好むペレットをなんとか見つけてみせる。
 粟穂の存在によって、わたしたちの(主にわたしの)生活は随分うまく回り始めた。
 さんごちゃんはのべつまくなしキャンキャン鳴くのをやめた。ただし、わたしがケージの死角にいく時と台所に立つときは、戻ってくるまでキャンキャンと鳴いた。鳴くのは寂しさも、やはり少しはあるらしい。
 わたしは小分けにしたペレットを五種類ほど取り寄せ、小さな餌入れを揃えて同じ分量だけ量って入れ、夕方どれが一番減っていたかを記録し、比較検討する、ということをはじめた。すべての餌入れに餌入れの重さを書いたマステを貼り、せっせと減った量を計算した。
 さんごちゃんは、ペットショップで買ったペレットはやはり食べていなかった。けれど、多少なりとも食べるペレットもあった。
 最終的に、わたしはペレットをラウディブッシュにしぼり、ラウディブッシュを常に置いて、粟穂を段々と減らしていった。

6.勝利

 さんごちゃんは、だんだんと刺し餌を必要としなくなっていった。そしてラウディブッシュを食べる量は日々増えた。わたしは喜びとともに、ラウディブッシュの消費量を記録し続けた。
 さんごちゃんは日々わたしの手の中でまどろんでおり、わたしはそれを喜んだ。わたしが昼寝からはっと覚めると、さんごちゃんもケージの中でまどろんでいた。一ヶ月以上が過ぎ、わたしたちの生活は、軌道に乗っていた。
 さんごちゃんはおもちゃにもぬいぐるみにも興味を示さなかった。放鳥をすれば、わたしの手から離れない。ずうっと手の中で握られている。
 だんだんわたしにも、この子は過度に甘えたなのではないか……? ということが分かってきた。思えば、他の文鳥が遊んでいる中、彼女だけが手から離れなかったのだ。そりゃあ甘えたに決まっている。
 さんごちゃんの身体はあたたかく、手の中で眠くなると、足の裏までほこほこになった。手のひらから染み入ってくるようなその体温に新鮮にびっくりしながら、この上なく愛おしい物だと思った。
 さんごちゃんは今や、ラウディブッシュを完全に主食として受け入れていた。エサを入れると大喜びでつついている。
 呼び鳴きの問題は残っているが、のべつまくなしキャンキャンキャンキャン……という問題は遠くなった。
 わたしはようやく、ごめんねとさんごちゃんに謝ることなく、自責の念にかられず、純粋にさんごちゃんを可愛いと思える権利を手に入れた。

 思えば子どもの頃、わたしは偏食で、何も食べない子どもだった。野菜はキャベツときゅうりしか食べず、幼稚園で出されたものには一切口を付けない。
 幼稚園の先生から半泣きの声で、「○○ちゃんが何も食べてくれないんです」と電話がかかってきたこともあったという。
 小鳥がペレットを食べないだけでこんなに大変だったのに、わたしを育てた母はほんとうに大変だっただろう。よく育児放棄せず育ててくれたものである。さんごちゃんの飼育を通じて、そんな親への感謝の念さえ湧き、そうやって親に苦労をかけたわたしは巡り合わせのようにさんごちゃんに苦労したのだな、とも思った。
 振り返れば、ペットホテルで憑きものが落ちるまで、わたしは完全に育児ノイローゼだった。
 原因の分からない鳴き声に半泣きになり、出口の見えない日々に絶望する。大げさかもしれないが、ほんとうに気が狂うかと思った。
 繰り返すが、小鳥でこんなに大変なのに、人間の子どもを育てている方にはほんとうに頭が下がる。きっと小鳥の何十倍も大変なことだろう。

7.現在

 突然だが、今は引っ越しをして新しい家にいる。新しい家は長方形の間取りで、さんごちゃんのケージから死角になる場所がベッドくらいしかない。
 さんごちゃんはほんとうに鳴かなくなった。常にわたしが視界の中にいるからであろう。昼寝をしていると、ピッピとわたしを呼んでいるが、その程度のものである。
 別にそのためだけに引っ越したわけではないのだが、間取り的に死角が発生しないというのは新居を選ぶ大きなポイントだった。おかげで今は、キャンキャンに悩まされずにパソコンに向かって文章を打つことができる。(前の部屋はパソコンがケージから死角だった)
 さんごちゃんとわたしは完全に蜜月の関係にある。さんごちゃんはわたしの手の中でうっとりと目を閉じ、わたしはさんごちゃんを握りながらもう片方の手でスマホゲーム「魔法使いの約束」をする。
 さんごちゃんのことが可愛くてたまらないし、愛おしくてたまらない。さんごちゃんがこの部屋にいてくれてほんとうに幸せである。
 この日々がさんごちゃんの寿命まで続くのかと思った日が、遠き日の悪い夢のようである。ほんとうに追い詰められていたのだろう。

 わたしが文鳥を選んだ動機に、インコより呼び鳴きが少なそうというのがあった。
 けれど文鳥は生き物なので、当然個体差がある。さんごちゃんが甘えたで、呼び鳴きをするのはさんごちゃんがそういう性格だからで、もうそれは仕方がない。今はそう思えるようになった。その分さんごちゃんはめいっぱい手の中で甘えてくれる可愛い子なのだ。
 さんごちゃんが体力の続く限り鳴き続けないでいられるなら、部屋くらい引っ越してあげようと思う。
 新しい部屋での共同生活は、とても快適である。
 この快適な生活が、さんごちゃんの寿命一杯分(それは長ければ長いほどいい)続いてくれることを、心の底から願っている。


#エッセイ部門

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