故郷の地図


 以外によくあることなのではないかと思うのだが、子供のころに住んでいた街の地図をみると、地名や建物の位置関係に「そうだったのか」とおどろくことがある。「子供のころに住んでいた」というのが大事で、地図をよく見るようになった後に住んだ町では、まず地図を確認して移動するから、自分の感覚と地図上の位置関係にギャップを覚えることはないと思う。

 ぼくは京都市の北部出身で、市内の高校を卒業して、茨城県の筑波大学に進学したから、「京都」という土地は自転車で登下校したり、テニスの練習で外を走りに行ったときのイメージがつよい。そういうわけで、例えば「嵐山」という観光の過熱もあって最近はかなり多くのひとに知られている地域は、通っていたテニスクラブから走っていった場所なのであって、東映太秦映画村の西側に位置する、などとは考えたこともないのである。

 だから、京都の客観的な地理関係は、「京都好き」でしばしば来京する観光客のほうが、ぼくよりよほど詳しいと思う。
 あるいは反対に、ぼくはパリで1年間留学していたから、パリのリセ(高校)を卒業して、リヨンなりレンヌなりの大学に進学した(元)パリジャンないしパリジェンヌは、ともするとぼくよりもパリの交通マップが頭に入っていないかもしれない。

 幼いころに身につく自分の目を中心に構成される虫瞰的な空間認識と、地図の情報をもとに自分の空間的な位置を把握する鳥瞰的な空間認識が、かりに多くのひとに経験されているとして、そのどちらが優れているかを語ることには特に意味はないだろう。けれど、鳥瞰的な空間認識が「地図が読める」としてほめられやすい世界では、そしてみんながほめるものには唾をはきたくなる天邪鬼なぼくとしては、故郷の地図をみておどろいてしまうような、おそらくは子供に典型的な空間認識をほめたたえたくもなる。

 虫瞰的空間認識に特有な点は、それぞれの場所が客観的な位置関係よりもむしろ、物語的な連関固有の意味関係によって結びついている、ということだろう。たとえば、数年前すぐそばに外資系の高級ホテルが建ちその趣を失ってしまった思えてならない二条城なる歴史的建造物は、市営地下鉄の二条城前駅から徒歩すぐの遺跡でも、JR嵯峨野線の二条駅から徒歩10分ほどの観光地でも、ましてや京都御所の南西に位置する17世紀の建造物でもない。二条城は、8時27分にそこを通過すれば、一限目の開始時刻である8時半にぎりぎり堀川高校につくことのできるメルクマールであり、下校するときはどういうわけか必ず向かい風にみまわれる忌まわしい場所である。

 「物語的な連関」なる抽象的なフレーズの意味が理解していただけるだろう。二条城は堀川高校まで朝の本気のスプリントで3分の場所である(なお、堀川高校の自転車用通用門から教員が待ちかまえる1階の下駄箱まで20秒かかるから、両地点は厳密には2分40秒の距離である)。グーグルマップなる人類の叡智が結集して作成され、皮肉なことにそれゆえに人類のおろかさを助長していると思えてならない地図アプリケーションによれば、両地点は徒歩で13分だそうだが、そのような情報を遅刻理由を詰問されるかもしれないと焦っている高校生に伝えても、「そんなんゆうてる場合ちゃう」と返されるだろう。

 つまり、客観的な位置関係をよく把握していない種類の空間認識にはそれに固有の豊かさが備わっているのである。というよりもむしろ、そのような豊かさによって構成されるのが虫瞰的な空間認識である。その豊かさは当然、当人にとってしか大きな意味をもたない豊かさである。だが、自分にとっては大事なことをたくさん抱えること以外に大事なことが、果たしてあるのだろうか。

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