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ART観劇

2023-06-10
大泉洋さん演じる中立派で日和見主義のイヴァン、小日向文世さん演じる理屈屋で理想を求めるセルジュ、イッセー尾形さん演じる頑迷で苛立つマルコ。
恐らくはフランスを舞台に繰り広げられる、「どうして友人なのか分からない」三人の友人たちの物語。

ーー以下ネタバレを含むーー

それは、セルジュが1枚の縦1メートル、横1メートル30センチの現代アートーー真っ白な絵ーーを買ったことから始まる。

どうしてもセルジュがその「真っ白なクソ」を買ったのか分からず、友が変わってしまったと嘆くマルコ。
マルコはそんな教育を受けていないのだから価値が分からないのは仕方ない、けれどそれを馬鹿にされる筋合いは無い。大体あいつは自分を見下してるのだ……と苛立つセルジュ。
そんな二人から、それぞれの立場の苦情を言われ、板挟みにされ、さらにはその日和見主義をバカにされて途方に暮れるイヴァン。

基本的にそのポジションはほとんど変わらない。
さらにはセットは三人の自宅を模した三種類のみで、大きく走り回るわけではない。
時折、個人にスポットライトが当たると、キャラクターはそれぞれの内心を語り出す。
それ以外は本当に会話なのだ。

小日向さんのインテリゲンツィア(と言いたい)なバカにした目線、イッセーさんの怒りを誤魔化すように薬を噛み、それでも隠しきれずに暴れ出す姿、一番オーバーに地面に転がり、2人の仲を保とうとしながらも最後にはどうでもよくなってソファに転がる大泉洋。
どれも、本当にそのキャラクターがいるとしか思えない臨場感と、「あるなぁこれ……」が満ちた会話だった。

友達が意に染まない行動をとったとき、
(まるで大場ななが「私の純那ちゃんじゃない!」と言ったように)
私たちは友人を理想化していた自分に気がつく。

そして、その苛立ちのままに動くと、私たちは超えては行けない一線を超えることがある。
ああこれ以上言ったら、この人との関係が崩れるかもしれないなという言葉がある。
その一線をこの物語は超える。

40代、芝居が進むごとに、家族がいることすら分かるその3人が何故どうして友人でいたのかということを探すことになる。

でも、その理由が提示される訳では無い。

最終的に、セルジュは自分が500万(フランスが舞台なので、フランか……ユーロか……)で買った絵に、文房具店で働くイヴァンからフェルトペンを借りて、マルコに落書きをするように言う。
イヴァンに止められつつも、マルコはその手を止めることなく、その真っ白な絵に、でかでかとスキーヤーを描く。
(スキーヤーを描くイッセーさんの手が滑らかすぎてめっちゃ良かった)
そして、空気がとたんに弛緩して、3人は夕食に向かう。
(結局フェルトペンは薬剤で消すことが出来て、セルジュはその事を知っていたという落ちがあるのだが……それはまた別の話。)

あの空気感は不思議だ。
私は、多分あそこでペンを渡せない。
たとえ、その落書きが消せるとしても。

そして、私の友人(といえるかもしれない人々)とは、きっとあの一線を越えられない。
良くも悪くも周囲と私はそこまで仲良くはないからか、互いの大事なものが似ているからか、互いを認め合うからだ。
もしくは似たもの同士としか友人になれていないといってもいいかもしれない。
セルジュとマルコのような、イヴァンのような、「どうして仲良くなったのか分からない相手」がいないのだ。

個人的にはマルコがセルジュたちに対して、「理想的な友人なんて居ないから、お前たちを理想的な友人にした!」「けれどお前は俺が少しほうっておいた間に別の神様を見つけて、俺の理想から『自立』したんだ」というそのセリフが刺さった。

すごいセリフだ。
俺の理想から自立。

でもきっとある。
これから先に、私はマルコになるのかもしれない。
私は誰かを理想化しがちだ。
だからきっと、会ってないうちに変わった友人に絶望するのかもしれない。
その時にこの演劇をもう一度思い出したい。

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