夢見りあむと処方箋

なんでウーユリーフの処方箋を読み終わって私の感想が夢見りあむ!!!!になってしまったのについて。

※ゲーム「ウーユリーフの処方箋」のネタバレを多大に含みます。
そしてゴリゴリの「夢見りあむ」へのお気持ちが入ります。

さて。
夢見りあむというアイドルがいる。
いわゆるアイドルマスターシンデレラガールズの中に入ってしまった新しいキャラクターだ。
去年の総選挙で何故か3位を取り、名実共にネタキャラ扱いが板に付いてしまった子である。
ここで一つ問題がある。

私は夢見りあむが好きだ。
19才で専門学校を辞めて、地下アイドルに没入した挙句プロデューサーに見初められ、「自分が尊いと思っているものになれはしない」と思い込みながらも前に進む彼女を私は好きになった。
自己嫌悪丸出しでそれでも名称だけは自分の憧れた存在のレッテルを貼られてしまったが故に努力する女の子だと思っていた。

が、いわゆる公式が提示してきたのはそんな彼女ではなかった。
公式の看板を背負った歌をパロディにしたソロ曲。
夢など叶わないことを打ち出した歌。
「炎上」をキーワードに、アイドルらしからぬダンスをする彼女。
正直物凄い勢いで解釈違いだった。
確かに、キャラクターとしての彼女の個性を尖らせた結果があの炎上狙いの曲だったのだと思う。
ただそれはキャラソンであって、「アイドルのデビューソロ曲」とは異なるのではないかと思う。

そして、そこまで考えて不思議な気持ちになった。
私は「夢見りあむ」をなんだと思っているのだろう。
あれが虚構であることに間違いはない。実際にそんな人間は存在しない。それを、どうして怒ることがあるだろうか。
解釈違いというのも、公式が出してきたものに言っていいのだろうか。公式が出してきたということはその世界では彼女はあの曲を歌うのが普通なのだ。
私が抱いた怒りは何だったのだろう。

それに明確な解ではないが、答えに近い感情を教えてくれたのが「ウーユリーフの処方箋」だった。
(前段が長すぎた)

「ウーユリーフの処方箋」はそれはもう豪速球で虚構についてのアンチテーゼを投げつけに来た。

ゲーム内で感情移入したキャラクターは主人公でさえも「キャラクター」であり、
「虚構は虚構であり、リアルの人間の感情を変える手段に過ぎない」
「搾取されるための道具」
であることをそれはもう全身全霊で伝えてきた。
「貴方が癒されるために、笑うために、このキャラクターはズタボロにされます。それが役目なので別に救済もしません」
今まで一緒に冒険してきた人達が無機質に倒れていき、それは現実世界のなんかよく分からんイケメンを救うためだけに行われていたことだと伝えられるえげつなさ。

この時に公式が出してきた「夢見りあむ」の定義が分かった。ただひたすらに、彼女はゲーム内のキャラクターであると言うだけだった。
消費される、搾取されるための道具としてどっかの知らないおっさんに喋らされている。
最後の方で私がマツリやキリオを救いたいと願ったのは大分夢見りあむへの気持ち混じりだったのかもしれない。

それだけなら、もう公式になんの期待もせず、余白は自由だとばかりに二次創作に埋もれるのが正解だと思った。それも都合よくキャラクターを消費することに他ならないにしても。
が、「ウーユリーフの処方箋」はそれでは終わらなかった。

ここで非常に厄介なのが
「ウーユリーフの処方箋」においての「現実世界」の登場人物たちがアイドルであるということだ。
アイドルなのか俳優なのかはやや不明だが、大まかに人気商売…つまりは「キャラクター」を売っている存在である。それは彼らも消費される「虚構」を抱えているということだ。
そこにもやはり「プロデューサー」がいて、彼らをいかに高く売りつけるか算段をしている。
しかし、現実世界の彼らは虚構を売ることに躊躇いを無くす。利用しよう、と彼らは積極的に自分の虚構の値段をつける。
「虚構の波に乗れ」というタイトルが最終も最終に出てくる。共犯者として彼らは自分たちを虚構の中に位置付ける。心のある、プログラミングされていないものとして利益を得るために貪欲に動く。
彼らは自分で自分の人生を選びとっていく。

もうだいぶよく分からない文になっていて申し訳ないが。
この更に外側の世界に「プレイヤー」がいるわけだ。
「ウーユリーフの処方箋」をプレイしている私たちにとっては「ウーユリーフにおいての現実世界」のイケメンたちもキャラクターなのだ。
結局、真実として、事実として彼らは「ウーユリーフ内のゲームのキャラクター」と変わりのない虚構だ。
しかし、そうではないというふうに訴えかけられる。

ここまでやって、不思議な転換が起きた。

もしも、
「ウーユリーフの現実世界の登場人物」に心があると認めるなら、私は虚構のキャラクターに自我があることを認めることになる。だって「ウーユリーフの処方箋」はゲームであり虚構だから。
それならば、そのまま「ウーユリーフのゲーム内のキャラクター」ももちろん虚構のキャラなので、彼らに心があることを認めてもいいということではないか?
バグみたいな結論だがそう思った。
ゲーム内の現実世界…はゲームのキャラクターだ。
ゲーム内のゲームキャラクターもゲームのキャラクターだ。
上に心があると言い張るなら、それ即ち下にも心があって良いのでは?
それは、夢見りあむにも心があると言っていいのでは?と思った。

虚構なのは間違いないが、観測者がそうと断ずればそう語らせれば心はある。と言ってもいい。
私が「夢見りあむ」を好きになったのは無意識に彼女にその心を見出していたからだろう。彼女の心情をトレースして物語を考えているうちにそれは公式の打ち出す「夢見りあむ」とはかけ離れた。
だってアレは「キャラクター」で、そうあれかしとされて動く者だから。
でも、多分どこかに心を持った「夢見りあむ」がいると思うのも消費者の自由だと割り切ることが出来た。
そしてそれが正解だと言ってしまってもイインジャナイカナーと思うことが出来た。
とんでもない乱文になってしまったが、これが私が「ウーユリーフの処方箋」から受け取ったものであり、「夢見りあむ」に対して一段落することが出来た証明である。

結論

ウーユリーフの処方箋はキャラに入れ込む人が死ぬゲームだけど特ストまで行くと「公式にキャラクターを玩具にされた」人への救いのゲームではなかろうか。

しんどい人がいっぱいやってくれたら私は嬉しい…………






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