Star Darlingの歌詞を見た時の最初のうめき、叫び、そして考察
朝起きたら、とんでもない歌詞が上がっていて、泣きながら全部聞いた。
『遥かなるエルドラド』におびえる日々が始まってしまった……
女子校で生き、育ってきた自分にとってかなり上記の歌詞に震えてしまったのだけど、書いているうちに少しずつ落ち着いてきたので、
まとめたものをここにひっそり置いておこうと思う。
※劇場版から入って、アニメ版、ロロロの順番で浴びた人間がキリン=自分のような感覚で書いています。
舞台少女が「舞台を降りる」ということ
さっきも書いたやつで恐縮なのだが、とりあえずファーストコンタクトで一番衝撃を受けた歌詞はここだった。舞台では、舞台で相手に向かってだけは本音が言えるんじゃなかったんですか!?!!!!!
最初に漏れた叫びはこれだったのだけど、文字をまとめているうちに、少しずつまとまってきたので、記載しておく。
舞台少女、舞台人、舞台女優……舞台〇〇という言葉で称されることが多いが、「女優」と呼ばれたのは露崎まひるだった。
それは、神楽ひかりに対して極限まで追い詰めるのが「全部演技」だったからだ。つまり、【舞台上で自己の感情を演じて伝える】=【舞台上で嘘を本当のように見せる】ことが「舞台女優」として称されていると言える。
このことに気が付いて、泣きだしたい気持ちが少し止まった。
今までの「レヴュー」は、基本的に少女達の想いや本音という真実を舞台上という虚構で飾り付けて届けてくる作品だったように思う。
けれど、『遥かなるエルドラド』ではそのフェーズが変わってくるのではないか?
ひかりがいなくなってしまった中で、愛城華恋の心情とセリフがかみ合った結果、新入生の拍手をかっさらう熱演になったこのセリフ。(この後、ひかりがいない状況にもかかわらず、貰った拍手に対して笑顔になってしまう華恋の役者としてのやばさがとても好き)
これはあくまで、舞台という虚構の中に、彼女の持つ真実の感情がかみ合ったからこそできたことだ。
しかし実際に舞台に立つことになれば、共感できないキャラクターを演じることもあるだろうし、過去の経験から感情を蒸留してきて演技に活かす、もしくは想像して演技をするしかない場面がやってくるだろう。
そして彼女達も今までの舞台がなんだったのかを知っていると思しき歌詞がある。
学生演劇とキラめき
ここで唐突な自分語りをすると、私は六年間女子校で演劇部の公演を見るのが好きだった。
ただ、そこで一番好きだったのは、演劇を見ることではなかった。
演技がすべて終了すると、役者たちが舞台の中央に揃って挨拶をする。衣装や照明の人たちも声をそろえる。その後に、その公演の座長(主演?)が「はい!」と言って手を打つ。
その瞬間、それまで完璧に演劇の世界にいた彼女達は、ふわっと空気をほどけさせて現実の――こちら側の世界に帰ってくるのだ。
その瞬間のはじける笑顔や、達成感の塊、先輩への憧れや、後輩への優しさや、そんな『キラめき』が大好きだった。
でも、それは、純粋に演技を楽しんでいるのではない。
演劇を楽しんでいたのではなく、まさしく「旅の途中」である彼女達の熱を消費していたのだ。
では、観客であり、物語の続きを望み続けるキリンたる我々とスタァライトとして考えてみるとどうだろう。
そりゃあ、彼女達が「生徒」であることを追いかけてきているので、純粋に彼女達の演技を見たくて追いかけてきたわけではない……
特に愛城華恋の演技が全部をぶっ飛ばせるぐらい良いのか?ということに関しては、劇場版を通して否定されている。
彼女は観客の目を知らず、ひかりちゃんだけを見て進んできた。
だからこそ、舞台女優になるためには「舞台少女」としての過去や今の熱のキラめきだけではないものを評価される必要があるのかもしれない。