闘病日記(7) 「談話室」

 食事が柔らかいご飯に変わってから数日が経過した。この時期の事はほとんど覚えていない。お風呂に入れてもらったり、ごく軽いリハビリテーションを行ったりしたが、すべてストレッチヤーか車椅子で移動してのことだった。自分の意思で何かをしたかと言えば何もしていないような気がする。淡々と日々が過ぎていった。やがて主治医の先生から、救命救急病棟を転院してリハビリ病院に移ると言う話が具体的に行われるようになった。父、(もしくは兄)と僕がいる時を見計らっては丁寧に説明をしてくれた。当時、書くことの練習をしていたノートを見返すと「理不尽な日々を淡々と生きる。」と書いてある。右手の力がどんどん入りづらくなっていた時期なので字はぐしゃぐしゃだ。でも間違いなく自分の字。
その頃にいちど、兄に車椅子を押してもらったことがある。リハビリを終えて病室に戻ったところを、理学療法士からバトンタッチをする形で兄が車椅子の背中へ回った。ふだん誰かに車椅子を押してもらうことに感謝しつつも、遠慮がちに座っていることになんとも言えない居心地の悪さを感じていたのも事実。その点、兄に押してもらう車いすは気が楽でよかった。兄弟であるというだけで気持ちが緩んだのだと思う。
「ヒデ、どっか見たいとこある? 病院の中ぐるっと回ってみるか?」
「いや、まだ他のフロアいったらいかんと思うわ。」
結局、すぐ近くの談話室へと向かった。大きく取られた窓から外が見渡せる。
「ヒデの高校、たしかこの病院の近くやったよね?」
「そうそう。」
「あそこに大きい車が並んで停まってるのるのわかる?」
「なんやろ? あれは? バスか?」
「そうそう。すごいやん。もしかして見えてる?」
「いやいや、あんまり見えてない。カンで言ってる。」
「そうか、きついな。目。」
「きついなあ。」
考えてみると、2人で揃って同じ景色を見ると言うのは本当に久しぶりのことだった。窓の外を見るともなく眺めながら、20年以上前のことを思い出していた。教師をしながら音楽制作を続けていた自分は、兄と2人で一卵性の双子の音楽制作ユニットとして、とあるレコード会社との契約が決まり、東京で活動を開始することが本格的に決まっていた。仕事を辞めて音楽業界へと進むことに両親は猛反対した。今回だけはやせてもらうと辞表を出そうとしたちょうどその折、母がくも膜下出血に倒れた。兄は既に勤めていた会社を辞めており、自分にはまだ辞表を撤回できる選択の余地があった。兄との東京での音楽活動を取るか。父とともに母を看つつ故郷に残るか。血を吐くほど悩んだ。そして、仕事を継続することを選んだ。兄と2人で描いた夢、何年もかけて作り出したチャンス、それら全てを投げ捨て諦めた。(結果的にそれは兄の人生をも大きく変えてしまうことになった。)あの時、自分がちがった選択をしていれば、たとえ音楽で結果が残せなかったとしても、2人で眺める景色は今とちがったはずだ。そのことを思うと涙が出た。絶対に巻き戻せない時間。今すぐでも戻りたいあの時点。過去は変えられない。兄と2人で黙ったまま日暮れまで窓の外を見ていた。

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