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なぜ、先祖の因縁を解く旅に出るのか(1)

11月に入って、西国三十三か所巡りを始めました。
(冷やし中華始めました的な…笑)

事の発端は、とある鑑定のこと。

かれこれ10年以上は気になっていた悩みを打ち明ける機会がありました。
ありました、というか「機会を作った」のですがね。

で、悩みの本編に入る前に、私の今世の考え方のスタンスとして「原因と結果の法則」のお話を、少し。

これがどうしても苦手…
これだけはめっちゃ嫌!
こういう境遇は避けちゃう…

みたいなことって、誰にでも1つや2つあると思うんですけども。

本能的に無理なことや本質的に合わないこと、そういうこと以外の面だと、今世で起きた何らかの体験(原因)によって不快感、違和感、苦手、嫌という感覚が出ると思っています。

「犬にめっちゃ吠えられたから犬が怖い」とか「昔、恋人に酷い言葉を吐かれて以来、恋愛が怖い…」とか。

その悩みや観念を形作る”事の発端”があるはずなんですよね。(そこを癒したりするのが、セラピーやヒーリング)

ですが、今世の問題だけじゃないのも、三次元世界にはありまして。

今世をいっくら振り返ってみても原因が無いけど、なぜか辛い
ということだって、必ずあります。

私が10年も悩んでいることは、まさに、こちらのタイプに当てはまっていてどう考えても原因不明なのです。こういうのって、他人に話しても理解されない度合いが半端ないので、本当にしんどいもの。

私の感覚で言えば、「他の人が普通にできることが、なぜ、私には出来ないんだろう?」という心苦しさが年を重ねる度にどんどん増して、他人に話すこともないので孤独感も募り、八方塞がり感を感じていた。

これはもう、私の前世とか先祖とかが絡むような、霊的な世界の部分の話だろうなぁ…と、去年ようやく感じ取ったのです。

そして、なぜだかこのタイミングで「本気で相談してみたい」と思える方に出会えたので、勇気を出して相談してみたのです。

華厳寺境内に入る道中

やはり、その鑑定でのお答えは、

はい、今世が原因ではないですね。

誰に言っても理解してもらえないし、その辛さも経験してきているのが伝わる。
今世の様々なところで弊害になってて、あなたはそれを変えたいと思ってる。
でも、変え方が分からなくて、どうにかしたいと思っていて、だけど、同じ場所に留まってる…という状態よね。
もう、その通りです。涙

もしかしたら、これがヒントに繋がるかもという手段も教えて頂いた上で、「この方のところに行くといい」と特別にご紹介下さったのが、R先生(仮名)。

R先生(仮名)は公に鑑定をなさってる方ではないので何度ググっても出てきませんし、もちろん、デタラメなことを言う方ではありません。ご紹介くださった先生も、公に言わないぐらいですから。

つい先日、R先生にお会いする機会を頂き、私の相談を聞いてもらったところ、こんなお答えがあったのです。

あなたの後ろには観音様が付いていらっしゃるので、まずは〇〇寺に行って、観音様にご相談して。

そして、西国三十三か所の観音様を巡ってくるといい。
その巡礼には、亡くなったあなたのお母さんも一緒に行くからね。

母方のご先祖様の負の因縁があなたに影響しているのを成仏させる意味で、お墓参りにも行ってお経を添えてあげること。
そうすることで、その負の因縁を抱えた〇代前のご先祖様も、成仏していくから。

観音様??
守護霊とか、指導霊とか、ご先祖様とか、そういう類とは違うのか…??という疑問は、帰宅してから浮かび上がったのですが(笑)

お会いしていた時間は、R先生の神聖なお姿に釘付けになってて、私も通常の理性が飛んでたのだと思う。普通のお店なんですけど、何と言うか、ものすごく守られた空間で、色々と目に見えない存在がいらっしゃてたのだろうな。(私は、視えたり聴こえたりはしませんが)時間と空間の概念を超えたような雰囲気が漂っていた時間でした。

で、話を戻すと

今世の私自身に母方の負の因縁がどれほど現在の私の人生に影響してるか、それは私には分からない世界です。本当かどうかなんて、誰にも分からないと思う。
人によっては「そんなの胡散臭い、信じられない」と言って蹴飛ばすこともあるかもしらんね。

それに、巡礼をやり遂げたからと言って、それが効いて現実世界にどんな変化をもたらすのか、全く持って未知数。分かりません。

だけど、こういう類の話において、私が大切にしていることはたった1つ。

「自分はどうしたいか?」
これが全てだし、これしかないのです。

使い古された言葉にはなるけど、結局どうしても、ここに戻ってくる。


ご先祖様とか、観音様とか、負の因縁がとか、それが真実かどうかは分からないし、真実を追求することが私の目的ではない。

どこまで行っても、誰に聞いても、どんな霊能者に言われたとしても「それが真実かどうか」の証明なんて、何一つない。目に見えない世界の話なのだから、目に見える形での証明のしようがない。

だからこそ、その点を踏まえた上で「私がどうしたいか」という自由意志に委ねられているのです。

(次の記事へ続く)

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