ピダハン族はなぜ色の名前を持たず、数や数え方を持たず、複雑な構文を持たないのか? PART2-3

手指の高次認知能力

Finger Gnosis(手指を心的に表現して識別する能力)

 手指認知の神経相関に特化した研究はあまり多くはないようだが、ゲルストマン症候群を左角回皮質下の断絶症候群としたルスコーニらによるfMRI研究では、手指の単なる触知覚に関連する処理から(自分の手が見えない状態での)手指認知に特有の処理を区別する設計を試みた実験の結果、両側の運動前野および楔前部、左側の前腹側下頭頂小葉および前内側下頭頂小葉、左下前頭回という推定ネットワークが浮かび上がった *234そのうちの(1)左前内側下頭頂小葉(ゲルストマン症候群の病変部位付近であり、体性感覚野に近い)がおそらく手指の身体構造表象(Body Structure Representations; BSR)の一次基質であり、課題に関連した手指表現の保持を担っているかもしれず、それが(2)左楔前部と相互接続して手指のBSRの中核的な基質を形成すると共に、(3)両側の楔前部(内側頭頂領域)および運動前野(背側前頭領域)は前頭-頭頂系として、手指のBSR(身体部位間の静的な位置関係)を視空間的な身体 図式スキーマ(空間における身体の姿勢および位置)と連携させることで、視空間イメージによって手指の識別を補助している可能性がある。

 これに関連する知見として、手指に限定されてはいないが、行為指向性身体表象と非行為指向性身体表象を比較した研究もある *235行為指向性身体表象とは身体 図式スキーマのことで、行為の実行や準備に関わる身体の動的表象であり、非行為指向性身体表象とはBSRのような身体の静的表象のことで、視空間的身体地図(Visuospatial Body Map)、身体構造描写(Body Structural Description)、身体地形図(Topological Map of the Body)など様々な呼称が用いられているようだ。この二つの身体表象の神経相関をメタ分析したところ、まず双方を包含する全体的分析では、(1)下後頭皮質および側頭皮質の知覚系回路、前頭葉の運動系回路、体性感覚皮質、頭頂葉の多感覚統合回路といった広範な活性化が浮かび上がり、とりわけ下後頭側頭皮質の、身体の一部に選択的に反応するEBA(有線外皮質身体領域)、より全体的な身体構成に選択的に反応する紡錘状回身体領域(Fusiform Body Area; FBA)は共に、身体の形状や構造の描写的処理に重要な役割を果たしていると考えられており、右EBAは自己と他者の身体を区別した反応も示す。次いでそれぞれに特異的な活性化領域を探索する対照分析では、(2)行為指向性身体表象の場合、右下後頭側頭皮質(右EBAおよび右FBA)・一次運動野(中心前回)・小脳の活性化に依存しており、右EBAの寄与はおそらく運動領域にも及び、より動的かつ継続的に更新される身体表象を担っている一方、(3)非行為指向性身体表象の場合、両側の一次体性感覚野(中心後回)・右縁上回の活性化が際立ち、一次体性感覚野は身体の空間的表現を構成もしくは統合しており、右縁上回を含む右頭頂葉は身体の視覚的・解剖学的・構造的特性の内部安定モデルを維持している可能性がある。そして共通活性化領域を探索する連結分析では、(4)双方は左半球において、補足運動野と中帯状皮質との間の、内側前頭回と楔前部からなる内側面の神経回路網を共有しており、これらの領域は自己対他者の表現に関与している可能性がある。以上から、行為指向(身体 図式スキーマ)と非行為指向(BSR)の身体表象は部分的に重なりながらも分離した神経基盤を持っており、前者は主として運動情報と身体部位の認識、後者は主として体性感覚情報と自己中心的視点の処理に依存していることが示唆される。

 これらの知見は前述の、数と指との関連性のくだりで触れた算術課題と指弁別課題における神経相関の研究においても、指弁別に特異的な活性化領域としてEBA・一次体性感覚野・一次運動野が挙げられていたこと、加えて左頭頂葉のhIPSや両側の楔前部へと広がるpSPLも両課題の共通活性化領域として挙げられていたことと重なるところがある。その研究の指弁別課題では、運動前野(特に左側の中心前溝下部)にも活性化が報告されており*231これもルスコーニらの研究結果と重なる。

 上記の指弁別課題の結果とルスコーニらの結果も含めて、視覚的フィードバックがない状態(つまり自分の手が見えない状態)での手指識別を必要とする14の神経イメージング研究を対象として定量的メタ分析を行った論文では、七つの活性化領域群が浮かび上がった*236すなわち(1)左縁上回、さらに左側の中心前回・中心後回・下頭頂小葉、(2)左前頭葉(ブロードマン脳地図6野)、さらに左内側前頭回、(3)右中心後回、さらに右下頭頂小葉、(4)右前頭葉(ブロードマン脳地図6野)の脳回直下の灰白質、(5)左中心前回、(6)小脳前葉の右山頂、(7)左中心前回であり、これらをまとめた結果、両側の下頭頂小葉に最大の活性化があり、加えて左側の中心前回・中心後回、左内側前頭回、内側小脳にも大きな活性化が認められた。以上の結果には楔前部の活性化が含まれておらず、その点がルスコーニらの研究などと異なる。ただし分析対象とした研究はその質にかなりばらつきがあり、実際、手指識別に限定された課題よりも、手指運動に関する課題の方が多く、しかも幾つかは複雑な課題を含んでいる。その他、被験者は主に右利きであること、そもそも分析に含まれる研究数が少ないことなども留意点となっている。

 子供(7~10歳の計42人)の手指認知能力と灰白質体積との相関を調べた研究も一つあり、楔前部・内側前頭回・大脳基底核・小脳において、手指認知と灰白質体積との間に負の相関が認められた(性差もあり、女子では前頭・頭頂領域の広い範囲、男子では大脳基底核の被殻と負の相関)*237一般に灰白質の体積は成熟につれて減少することから、この負の相関は、手指認知能力(視覚的フィードバックなしに、指の名前や位置を同定する能力)が高い子供ほど、これらの領域の成熟が早いことを示唆する。そのうちの大脳基底核は手指の運動イメージまたは自動的な動作制御に関与している可能性がある。また楔前部は視空間イメージ・エピソード記憶・空間的位置の符号化と検索など、多感覚統合的な視空間処理に関与しており、(人間以外の霊長類の研究では)運動前野と結合して、視覚的に誘導された手の動きに重要な役割を果たしているという知見もあることから、指の体性感覚刺激と指の視空間的表現とを組み合わせた視空間処理に関与している可能性が高い。これらの領域には、ルスコーニらの研究で手指認知ネットワークの中核的基質と目された左下頭頂小葉は含まれていないが、この研究では灰白質体積の変動の個人差を調べているので、中核的構成要素である左下頭頂小葉には個人差があまりなかったという可能性を著者らは指摘している。だが別の可能性も考えられるかもしれない。数的能力のくだりで述べたとおり、左下頭頂小葉の角回(または縁上回)は掛け算の事実検索に関与しており、記号-参照の対応付けを媒介している可能性があるが、算術の場合、計算能力の発達に伴って事実検索への依存が増えるとともに、その領域の活性化が認められるようになる。とすれば、左下頭頂小葉はそのような機能の一環として、指の体性感覚刺激とその他の表現との対応付けも媒介しており、その対応付けが自動化されるほどに、下頭頂小葉も活性化するようになるという可能性も考えられるかもしれない。子供から成熟するにつれて、もしかしたら手指認知に関しても、楔前部を主とした視空間的イメージに対する依存度が下がり、その代わりに左下頭頂小葉において、より自動化された対応付けが行われるようになり、手指の識別に熟練するのかもしれない。たとえば角回は異なる感覚様式の収束領域として、感覚間相互作用や多感覚統合に主要な役割を果たしているという見方をされることが多い*238

 神経心理学的研究では、手指失認のくだりでも触れたように、左角回の損傷によって指の識別に特異的な障害が起こることが報告されており、この種の患者三人(ただし一人は右角回損傷)を対象とした実験によれば、被験者たちは自分の手が見えない状態のまま、触れられた指をもう片方の手で直接指す課題では正常な成績を収めたが、触れられた指と同じ指を手の線画において指す課題では誤りを多く犯した*61線画課題ほど悪くはなかったが、触れられた指の名前を答える課題でも障害があった。誤りの大半は人差し指・中指・薬指の識別であり、それらは手の両端に位置する親指と小指よりも区別がつきにくい(特に中指と薬指の成績が悪く、それらは人差し指に比べて普段、意識的・実用的に操作される経験が少ないからだろう)。ちなみに手指以外の身体部位の定位課題も行われたが、それは完璧な成績だった。触覚刺激をたよりに自分の指を直接指す場合、入り組んだ認知処理を介さない感覚運動表象に依存するだけで済む一方、線画課題や命名課題の場合、より意識的に相対的な指の位置関係を認識する必要があり、従ってこの結果は、感覚運動よりも高次の、手指の身体表象が損なわれている可能性を示唆している。

 以上のような知見から、両側の(あるいは左側がより優位な)下頭頂小葉がやはり手指の心的表現に重要な役割を果たしており、楔前部はその視空間イメージに関与するとともに、hIPSやpSPlなどとも連携して、各指の相対的位置表現や内的注意などにも関与している可能性が示唆される(これは心的数直線とその上を動く注意のカーソルという前述の仮説に非常によく似ている)。さらに中心後回(一次体性感覚野)や中心前回(一次運動野)はより直接の感覚運動的な側面、そして手指というのは最も操作される身体部位の一つであり、その識別には自動的に運動準備が伴うだろうことから、運動前野はそのような側面に関与している可能性が高いだろう。

 EBAについては、当初は後頭側頭皮質にある他のカテゴリー特異的領域、すなわち身体に選択的に反応する紡錘状回身体領域(Fusiform Body Area; FBA)、顔に選択的に反応する紡錘状回顔領域(Lateral Occipital. Complex; LOC)、物体に選択的に反応する外側後頭複合体(Lateral Occipital. Complex; LOC)などと同様に、身体部位に特化した視覚処理を担う領域であり、また腹側視覚経路(物体認識や視覚認知に関与)の一部と考えられていたが、近年では構造的にも機能的にも、むしろ背側視覚経路(視覚運動や視空間認知に関与)との結合性が強く、知覚と運動過程を橋渡しする領域として、目標指向性の運動計画の初期段階に関与しているのではないかという分析もある*239この分析によれば、EBAは一次視覚野や上側頭溝のほか、上頭頂小葉・中心後回(一次体性感覚野を含む)・頭頂弁蓋部(二次体性感覚野を含む)といった頭頂領域との結合によって特徴付けられており、とりわけ右EBAが背側経路と強く結合しているとされる。それらの頭頂領域は手を伸ばしたり何かを把持したりする際の体性感覚情報と視覚情報の統合、行為実行中の身体状態の推定などに関与していることから、EBAは現在の視覚情報および体性感覚情報との照合を通じて、過去に学習された知覚に基づく事前知識を背側経路に提供することで、望ましい身体姿勢を予測することに寄与している可能性がある(自己に対する他者の相対的な位置および姿勢の推定も媒介している可能性がある)。またこの分析の補足資料では、上記の領域に次いで、左下頭頂小葉およびIPS周辺ともEBAは接続していることが示されている。これらの分析結果は、算術課題と指弁別課題における神経相関の研究においてEBA–pSPL/hIPS–S1/M1というネットワークが示唆されていたこと*231さらには前述の、右EBAが行為指向性身体表象に関連して活性化するという知見と重なっており、おそらく姿勢や動作に関わる手指認知の際、EBAが活性化するのだろう。ちなみにこの分析では、紡錘状回身体領域(FBA)は腹側経路との結合性の方が強く、外側後頭複合体(LOC)は腹側経路との結合性の方が強いものの、背側と腹側両方との結合パターンを示した。これらは背側視覚経路と腹側視覚経路はかつて考えられていたほど明確な境界を持っていないという見方を支持するものでもある。

 ピダハン族の場合、各指を識別して用いるような文化がないゆえに、手指認知に関する以上のような神経表現や神経ネットワークの一部があまり発達していない可能性が推測される。とはいえ教え込まれれば、各指に呼称を与えるだとか、指差しを用いるだとか、その程度のことは簡単にできるようになるかもしれない。ただし前述のとおり、八ヶ月にわたって教えても10まで数を数えられるようにならなかったというエヴェレットの証言から、手指を抽象的な数の概念(基数性や序数性)、計数原理や記号的数体系と結びつけて用いることはできない可能性がある。

手指と抽象的な数概念

 この点に関しては、おそらくホームサイナーの知見が参考になる。すなわち音声言語も手話言語も習得しておらず、独自のジェスチャーで周囲とコミュニケーションをとる聴覚障害者であり、抽象的に数を表す記号を身につけていない可能性が高いゆえに、その欠如または不足において、ピダハン族との共通性が認められるからだ。

 以前にも一度触れたとおり、ニカラグア農村部のホームサイナーを対象とした研究では*33物体や刺激の3までの小さな数は正確に把握できるが、それを超えると精度が低くなることが報告されている。興味深いことに、ホームサイナーはこの研究において、カードに描かれた物体の数を答える課題では、それに対応する本数の指を立てて示したが(ただし特定の数に対して特定の指の組み合わせを必ずしも使わない)、身体の一部を軽く叩かれた回数を答える課題(ポーカーチップで回数を示したり同じ回数を叩き返したりすることで回答)では、指を使って刺激の回数を数えることはしなかった。その一方、対照群の健常者や手話を用いる聴覚障害者は叩かれた回数を数えて回答した。これはホームサイナーの指の使用は単なる視覚的な物体との対応付けであって、基数表現として計数に用いられているわけではなく、一対一の対応付けが数値の等価性を意味すること(ヒュームの原理)、ある数には一つ大きい次の数があるということ(後者関数)なども理解していない可能性を強く示唆している。もっとも、彼らの回答は数が増えていっても正解に近い範囲ではあり(たとえば6個の物体に対して、立てる指が5本だったり7本だったりもする)、手指のジェスチャーは数量の近似的推定を表現してはいる。また大きな数に対する回答の際、苦戦している様子があり、集合に正確な基数があること、近似的な答えでは十全ではないことも理解しているようだった。だが、とりわけ3を超える数について、その正確な基数の表現を持っておらず、ホームサイナーの指は数を数えることには用いられなかった。普段から貨幣を使って生活しているにもかかわらず、計数システムを持っておらず、おそらく自然数の概念や体系を理解していなかった。

 同じ研究者らは同様にホームサイナーを対象として、記憶スパン課題(短期記憶の容量を測定する課題)を行った結果、その短期記憶において、物体・動作・属性を表すジェスチャー(名詞・動詞・形容詞に相当する)はいずれも単語単位として機能する一方、数を表すジェスチャーはそうではない可能性が高いことを発見した*240短期記憶の容量には限りがあるゆえに、音声言語でも手話言語でも、短い単語に比べて長い単語は想起しにくくなるが(音声言語の場合は音節数が多くなり、手話言語の場合は動作が長く複雑になるので、記憶負荷が増える)、それは通常、音韻論的または形態論的な性質に依存した効果であり、意味論的な性質には依存しない。たとえば数を表す単語の場合、「三」と「八」は短期記憶に占める容量は同じであり、「三」は「棒・棒・棒」という個々の単位三つだが、「八」は「棒・棒・棒・棒・棒・棒・棒・棒」という個々の単位八つなので、八の方が記憶負荷が高いということにはならず、「三」も「八」もいずれも単一単位として、抽象化された要約記号として機能する。ところがホームサイナーの場合、物体・動作・属性を表すジェスチャーは音声言語や手話言語の単語と同様、短期記憶において単一単位として機能していた一方、数を表すジェスチャーはそうではないようだった。それは単一単位としての要約記号ではなく、個々の項目の表現として用いられており、たとえば4本の指を立てる場合、それが4という集合の基数表現ではなく、1・1・1・1という個別の項目(対象・対象・対象・対象という個々に紐付けられた索引)が四つあるという表現であることが強く示唆された。ただし5本の指を立てる片手のジェスチャーだけは、5という纏まりとして処理されている可能性も示唆された。とはいえ、それも5の要約的な基数表現ではなく、単に1・1・1・1・1を簡単にまとめて扱える特別な手の形だからにすぎない可能性が高い(一種のパターン認識なのかもしれない)。たとえば5匹の犬を伝えるために5本の指を立てた場合、そのジェスチャーは犬または1を表す記号が五つという構成の表現であり、5という単位が一つという表現ではないようだ。

 上段の記憶スパン課題では、3までの小さな数の想起はやはり成績がよかったが、手指ジェスチャーに関する類似の知見は数詞の意味を習得する途上の、健常者の幼児(155人の3~5歳児)を対象とした研究においても示されている*241基数原理を知らない部分集合知識者(多くても四までの数詞の意味しか理解しておらず、それに対応する物体の集合しか正確に列挙できない幼児)の場合、物体の数を答える課題において、数詞よりもジェスチャーで答えた方が成績がよく、とりわけ3個以下に対しては正確であり、しかも二や三という数詞の意味をまだ理解していないほど(暗記しているので口にすることはできる)、数詞とジェスチャーとの成績の差が大きかった(つまり2個や3個の物体の数を答える際、数詞よりもジェスチャーの方が正答率が高い)。さらに5個を超える大きな集合に対しては、数詞では大きく外れた答えを口にしてしまうことが多かった一方、ジェスチャーでは正解に近い近似的な答えを示した。これらは3以下の小さな数に対しては並列的個体化システム(別名OTS)、より大きな数に対してはANSに基づいて表現していることを示唆しているが、加えてこの段階の幼児では、数に対して、ジェスチャー表現の方が言語表現よりも先行して発達していることも示唆している。また興味深いことに、基数原理を知らない幼児の場合、数える物体が3を超えて4個になったところで、数詞のみならず、ジェスチャーでも急激に成績が落ちた。これは並列的個体化に基づく一対一の対応付けは3までしか使えず、ANSに遷移する境界であるところの4において、それが機能しなくなるからであると解釈された。この特徴はホームサイナーと同様であり、ピダハン族と同様でもある。ちなみに基数原理知識者(四を超える数詞の意味も理解しており、数えた最後の数が集合の大きさを表すことを知っている)子供の場合、4個の物体に対しては、ジェスチャーよりもむしろ数詞の方が正確に使われていた。これは3を超える大きな数については、正確な基数表現を用いるようになる段階において、物的対象と紐付けられた指(あるいはその他の物理的索引)よりも、むしろ数詞という抽象的な要約記号の方が先行することを示唆している。別の言い方をすれば、4から先へ進み始めることで、抽象的な基数性への切り替えが起こるのかもしれない。

 こうした知見を踏まえた上、ピダハン族がマッチング課題において10個までの物体の一対一対応を完璧にこなした事例もあったこと、その場合、エヴェレットの妻(現在は離婚済みなので元妻)が4を意味する「手のすべての息子」といった言葉、すなわち四指を使ったジェスチャーに等しい表現を教えたことで成績が向上した可能性もあることなども考慮に入れれば*28 *29ピダハン族も物的対象との視覚的な対応付けとして指を用いることができる能力はおそらく持っているだろう。だが、基数性や序数性といった数概念、それらに基づく数体系や計数原理は理解しておらず、なおかつ習得できないかもしれないゆえに、そのような抽象的な数表現に基づいて指を用いることはできない可能性が推測される。つまり物的対象から切り離された数概念が生じず、数量という物理的次元から数値という抽象的次元への飛躍が起こらない段階にあるのだろう。

 たとえば以下のような指(F-inger)と物体(O-bject)の一対一対応、あるいは指の列挙と物体の集合との対応の時点では、手指表現はまだ物的対象に強く紐付けられており、それらとの関係に基づいている。

     F        F  F  
  |      |   |  
     O       O       O    

    F   FF   FFF  
   |  |    |   
   O  OO   OOO  

 しかし徐々に以下のように、指だけで各種表現間の関係、すなわち並びに沿った順序、±1の増減などを推論することを繰り返していけば、それはそのうちに物理的次元から抽象的次元へと飛躍していく。やがては指数えという身体的制約からも解き放たれて拡張されていき、基数原理や後者関数を抽象的に理解した上で、無限性の理解にも至ることが出来るだろう。

 F1←→F2←→F3←→……?

 F←→FF←→FFF←→……?

 とはいえピダハン族の場合、抽象的な数量表現として「hói」「hoí」「baàgiso」という三つの単語、おそらくは「ちょっと」「いくらか」「多い」というような意味合いの、文脈に応じた相対的な量感覚を表現する曖昧な量化詞(数量詞)のような用語を使う(これは前述の心的数直線関連の研究において、ユプノ族が10までの数を大中小というカテゴリーに分類したことを思い出させる)。これらの用語は概数的な推定システムであるANSに基づき、数量の把握・比較が非常にざっくりと表現されているものだろうが、当初は「一つ」「二つ」「多い」という意味の用語だと解釈されたことも加味すれば、一や二といった正確な数詞が明確に出現する以前の、原始的な段階を示す一例だとみることもできる。もし数が必要とされる社会に変わっていけば、その段階から数詞や計数といった数的文化が出現していくことになる。もちろん現代では既に数的文化が確立された社会が大半であり、そのような文化自体が新しく出現する過程はせいぜい推測するほかにないが、しかし数的文化が確立された社会においても、誰でも生まれつき数詞や計数能力を修得しているわけではない。とすれば、小さな子供がそれを習得していく過程を参考にすることで、数表現の抽象的次元への飛躍について、いくらかの示唆は得られるかもしれない。

 そのような観点から幾つかの研究をみてみると、まず就学前の幼児においては、数詞(離散的な記号的数表現)からANS(連続的な近似的数量表現)への対応付けの方がその逆よりも先に発達することが示唆されている*242およそ4歳未満のアメリカの幼児の場合、数詞を聞いてそれに対応するおおよその数量を物理的に再現する(たとえば実験者に「X回叩いて」と命じられて、正確ではなくても、近似的に妥当な回数だけ縫いぐるみの頭を素早く叩く)ことは可能だが、視覚的に提示された数量におおよそ対応する数詞を挙げる(たとえばパッと一瞬だけカードを見せられて、そこに何個の物体が描かれていたか、近似的に妥当な数詞を答える)ことは難しく、およそ4歳を過ぎて、基数原理を理解した段階でなければ後者に成功することはできなかった。これは幼児にとって、正確な離散的数記号(つまり数詞)に粗い連続的数量表現(つまりANS)を対応付けるのは比較的容易だが、その一方、粗い連続的数量表現に正確な離散的数記号を対応付けることは、非常に困難であるからと解釈された(前者は与えられた明確な指標に対して、おおよそ応えるだけでいいが、後者は曖昧な範囲に対して、自分で明確なラベル付けをしなければならない)。またこの結果から、数詞とANSとの対応は双方向に発達するのではなく、まず数詞からANSへの対応付けが発達して、その後に別の過程として、ANSから数詞への対応付けも発達していくという見方も提示された。ただしこの研究では、基数原理を理解している幼児に限っては、4までの数であれば、視覚的提示に対応する数詞をほぼ正確に答えることができた(より大きな数の範囲に対しても妥当な数詞を答えられる進んだ幼児もいた)。これは数詞の意味を獲得して基数原理を理解していく初期段階において、おそらくSubitizingに基づき、4までの意味は物体識別の経験を介して、抽象的かつ離散的な数詞への対応付けが形成されていることを示唆する。数詞の意味の獲得において、ANSが主要な役割を果たしているという証拠はないという分析もあり*243最初の小さな数(1~3または4)の正確な意味の土台には、やはりOTS(別名、並列的個体化システム)によるSubitizingがあるのだろう。

 以上から、ANS(粗い連続的数量表現)の精度向上や抽象化によって、数詞(正確な離散的数記号)の意味が習得されるのではなく、まず一・二・三といった数詞があって、その意味はおそらく並列的個体化システム(別名OTS)に基づいて獲得されること、そこから基数原理の理解により、4を超える大きな集合に対しても数詞による符号化が拡張されていくことが示唆される。これは基本的な数量認知能力として、視知覚に多くを依存するOTS(小さな数量の正確な把握)およびANS(大きな数量のおおよその推定)があるという前提の上で*34最初は右頭頂葉優位の非記号的数量処理が発達して、それから数的記号の習得が主因となり、左頭頂葉の記号的数処理が発達していき、それに伴って、非記号的な数量処理の精度も向上していくという*196前述の知見とも一致している。またこれは前出の、ANSは整数概念の獲得に主要な役割を果たさず、まず小さな数詞の意味を小さな集合と対応付けた後、後者関数とヒュームの原理を実装した計数アルゴリズムの論理を習得することで、大きな数詞の意味も学んでいくという整数概念の獲得過程についての仮説の*40前半部分の主張にも沿っている。

 そこで次に参考になるのは、小さな数詞の意味を理解していった後、計数能力がどのように発達するのか、後者関数(任意の数nには必ずn+1の後者がいること)の知識をどのように獲得するのかという近年の研究だろう。これについてはまず、子供が数を数えることを学習する過程において、集合とそれに貼り付ける数詞というラベルとの対応付けから、数唱(一・二・三……)と集合の大きさ(1・2・3……)との関係に類推的に気づき、そこから意味論的に帰納された原則がすべての数に一般化されることで、基数原理と後者関数の概念の双方が獲得されるという見方がある*244 *245だがそれに対して、基数原理よりもかなり遅れて後者関数の概念が現れることを示した研究もある*246この研究によれば、(1)基数原理を知っている3~5歳の幼児であっても、多くの場合、小さな数に対してさえ、後者関数の知識を持っておらず、(2)小さな数ならその+1の後者を識別できる幼児であっても、大きな数に対してはそれができず、(3)後者関数の理解を試す課題の成績は、最大いくつまで数を数えられるかという計数能力と相関しており、(4)30を超える数を数えられる計数能力を持った幼児であっても、10を超える数の場合、その次の数を系統的には識別できず、つまり計数可能範囲であっても、後者関数の理解を持っていないようだった。これは基数原理を知っていても、数詞の意味を順序関係まで含めて、一般原則(自然数の体系)として理解しているわけではないことを示唆する(ちなみに後者関数ではなく、数える際に後に来る数ほど大きいという知識については、ANS能力との相関が認められた)。

 この見方をさらに支持するものとして、5歳半から6歳頃になってようやく後者関数の知識が生産的なものとなり、すべての数に対してそれが適用されるようになるという研究がある*247この研究では、4~7歳の基数原理を知っている子供100人を対象として、ある数の次の数を答えさせる(最小では4個、最大では70個を超えるプラスチック製の熊の玩具の、その個数を明示して箱に入れた後、1個だけ追加して正しい個数を選択させる)後者課題を行ったほか、数の無限性に関する質問(「数え続けたら最後の数になる? それとも永遠に続く?」「それ以上は足せない大きな数はある?」など)にも答えさせて、後者関数の推定能力と概念的知識の両方を調査した。後者関数を真に理解しているなら、特定の数だけではなく、どんな任意の数に対しても+1の後者がいること、そして最大の数は存在しないことを原則として知っているはずであり、それは無限性の理解に寄与するだろうからだ(この段階に至る前の子供は、それ以上は1を足せない最大の数があると考えたり、1を足し続けることはできるが数には終わりがあると考えたりする)。結果として、後者課題の成績は計数能力(最大いくつまで数えられるか)および年齢と相関があり、また無限性を理解している子供の大半は計数能力が高く、後者課題の成績も天井に近かった。さらに後者課題の場合、それぞれの子供の数えられる範囲に限って成績を分析したのだが、80を超えて100まで数えられるような子供の場合、すべての数の後者を一貫して識別できた一方、最大で80未満の数しか数えられない子供の場合、小さな数の後者しか一貫して識別できなかった。つまり計数能力が非常に高い水準にまで達していない場合、数えられる範囲内においても、大きな数の次の数を系統的には理解していなかった。これは基数原理を知っている子供であっても、豊富な計数経験を積んでいない限り、後者関数を理解してはいないことを示しており、逆に言えば、後者関数を理解するためには、豊富な計数経験が必要であることを示唆している。この研究を報告した著者らは、まず部分集合知識者から基数原理知識者への移行として、(1)数唱リストを暗記すること、(2)数唱との一対一対応として、物体を指し示すこと、(3)「いくつありますか?」という質問に対して、物体を数えた最後の数で答えること、という三段階を覚えた後、(4)三つ目の段階の手順を逆に実行して、「~個ください」という要求に対して、数えた数だけ物体を渡すことも学習するという、一連の決まった手続き的知識を獲得する過程があると推測している。そして最初の三つの段階においては、子供はあくまで覚えた手続きに従っているだけで、まだ数を数えることの意味を理解してはいない。(3)は提示された物体の集合を列挙して数詞というラベルを貼り付けるだけだが、(4)は提示された数詞から物体を列挙して集合を作らなければならず、つまりは自分で集合を生成できる段階になった時、はじめて基数原理知識者となるようだ。そのうえで基数原理を知る段階になっても、後者関数を理解してないということがこの研究では示されているので、では次にどのようにして後者関数を学習するのかという問いが生じる。著者らはこれに対して二つの仮説を提示している。ひとつには上述の意味論的帰納仮説の修正版、(1)すなわち数詞というラベルの数唱とそれに対応する集合の大きさとの類推から、やがて帰納される+1の原則の一般化が、基数原理を知ってからしばらく後の、より遅い時期において起こる可能性であり、もうひとつの仮説としては、(2)この研究で後者関数を理解することが示された6歳頃にちょうど、足し引きを学ぶ子供に起こる計数能力の変化、すなわち3個と2個など複数の集合の合計を数える際、最初は1からすべての数を数えるが、そのうちにいきなり3から(つまり片方の集合の基数から)数えるようになることが関係している可能性であり、数詞と集合との対応に基づく類推ではなく、基数それ自体に+1が実行されるという計算経験に基づく帰納的推論から、後者関数が理解されるのかもしれない。たとえば3から始めて4・5と数える場合、1・2・3・4・5と単に数唱に従って列挙するのではなく、3という基数に+1という操作を二回繰り返すという経験が積まれる。その他にも著者らは、100を超える数を数えられるような子供ほど後者関数を理解していたという結果から、そのような子供は再帰的な操作や構造として計数を捉えており、それが+1という後者関数の原則の理解に繋がっている可能性も示唆した。

 こうした見方はその後も追究されている。まず幼児は正確に数を数えられるようになっても、ひとつ数えるたびにそれに対応する集合に1が加えられるという、数唱と後者関数に基づく集合の構造との対応付けを理解してはおらず、あくまで既知の特定の数詞(一・二・三など)とそれに対応する集合との、直接的な関連付けを記憶しているだけでしかないことが示唆されている*248つまりこの段階では、個々の項目に基づく知識(たとえば「二」は2個のことで「一」の後で「三」の前といった個々の数詞の知識)があるだけで、集合の構造(自然数の体系)を推論しているわけではない。たとえ基数原理を知る幼児であっても、たとえば既知の「五」という数詞に1を足すと「六」になることは推論できても、馴染みのない「二十五」に1を足すと「二十六」になることは推論できない。とすれば、個々の数詞と個々の集合との項目的対応付けではなく、数唱リスト(つまり数詞の順序関係)と集合の構造(つまり自然数の体系)との構造的対応付けが推論されることで、後者関数が理解されていくのかもしれない。そしてそのような推論を駆動する知識源として、(1)計数の生産的規則の知識、(2)+1の算術的事実の知識、この二つを検討した研究では、前者は後者関数の理解と関連している一方、後者は必ずしもそうではないことが示唆された*249つまり5+1や6+1といった算術的事実の積み重ねではなく、暗記された数唱から生産的な計数の規則を抽出して学習することで、どんな任意の数であっても次の数に+1の生成規則を適用できる能力、すなわち後者関数の知識が獲得される可能性が示された。この結果を支持する別の研究もあり、そこでは後者関数の概念の獲得に寄与するものとして、とりわけ計数の統語的規則、すなわち十進位取り記数法(30と1を組み合わせて31など)の知識を挙げている*250子供は100を超えるような数まで数えられるようになると、「0の単位と1~9を何度も繰り返すことになるので、個々の項目の意味よりも、計数それ自体の再帰的な規則に気づきやすくなる。これは計数能力が非常に高い子供のみが後者関数を理解しているという、上述した他の研究結果とも一致している。

 これらの研究は総じてアメリカのものだが*241–*250その知見を大まかにまとめて推測すれば、高度な数的文化圏の場合、まず意味も分からない数詞という記号の並びを暗唱するところから始まり、物体の集合に数詞というラベルを貼り付けることを通じて、その数的記号の意味を個々の項目に基づき、小さな数から現実の対象や経験に接地させていき、その後、計数の再帰的規則に気づくことで、項目間の順序関係や集合の大きさとの構造的対応付けを理解して、やがては抽象的な自然数の体系を身につける。これはすなわち、文化的に構築された既成の抽象的記号やその体系の意味を理解していく過程と言える。その一方、ピダハン族の場合、離散的な数詞すらない文化圏であり、数的記号の意味を理解するどころか、むしろ文化自体がそもそも、物理的次元から抽象的次元へと飛躍していない段階に留まっている。前述のホームサイナーの研究において、数を表す指のジェスチャーが要約記号になっていなかったことも、この抽象化の飛躍が起こっていない段階とみることができる(こうしたホームサイナーの場合、数的文化圏に暮らしてはいても、共通の言語を持っていないので、周囲から既成の数的記号を学習することがない)。従ってピダハン族の場合もおそらく、指を物理的索引としては使えても、それ以上の抽象的な符号化の装置として用いることは難しいだろう。

 そしてアメリカのような国の子供でさえ、長い時間をかけて計数原理や自然数体系を習得する必要があるという、上記のような数概念の発達の過程からは、それらが主として文化的構築物であり、また文化的学習の産物であることが強く示唆される。しかしそうだとすれば、人類史において、そもそも学習すべきその文化自体が存在しない状態から、どのようにして数概念や記号的数体系が生じたのかという疑問が生じるだろう。外的な数記号が存在しなければ数概念を学ぶことはできないが、内的な数概念が存在しなければ数記号を作ることもできないのではないかという一見、逆説的なこの問題に対して、たとえばある仮説では、主として少数民族の無数詞・少数詞文化の知見に依拠しながら、もともと数的な意味を持っていなかった記号が再意味化されることで、数概念が生じていったという過程を提示している*251この再意味化仮説によれば、(1)既出の諸研究でも示されているとおり、生得的な能力として、3~4個までの少数を正確に把握するSubitizing、おおよその数量を推定するANSがあり、この段階ではピダハン族のように少数の正確な列挙しかできない。(2)そこから最初の数詞(一や二や三)の発生過程として、文法における単数・複数形からの派生、あるいは別の意味を持つ単語からの派生がある。たとえば「一」が「単独で」「一緒くたに」という意味も兼ねることからそれが語源と目される多くのオーストラリア先住民諸語*252「一」「二」「三」の語源が「それ」「目の量」「ゴムの木の種の量」であるフプ(Hup)語、「一」の語源が「他の」「他の個体」であるユフプ(Yuhup)語、「一」「二」「三」の語源が「単独で」「鹿の足跡」「レア鳥の足跡」であるシェレンチ(Xerénte)語といったアマゾン地域の諸語など*253 *254指示詞や限定詞、対象がSubitizing範囲の構成要素を持つ別の名詞(ゴムの木の種には丸みを帯びた三つの隆起があり、足跡はそれぞれ二蹄と三趾)からの派生が事例として挙げられる。(3)そこから4または5以上の数詞の発生過程としては、まず骨・棒・紐・小石・指などを用いた一対一対応の集計技術が生活上の必要性から生じたのち、とりわけ手指をはじめとした身体部位を集計に使用することで、集計中、その部位の名称やそれに関連する動作(たとえば「もう一本指が立つ」など)を発声するようになる。そして意味を表現するためではなく、ただ単に集計を認知的に補助するために発声が用いられることで、その用途では言葉から元来の意味が失われていき、やがて手指を用いた集計手続きが慣習化すると、各指の順番が安定順序の原理を生み出す。(4)その順番に従って集合を列挙することを繰り返すうちに、最後に発声した言葉がより記憶に残るという新近性効果から、その言葉に集合の大きさと一致する基数的意味も付与されるようになり、そのようにして最終的に、元来の意味を喪失した言葉が数詞として再意味化されることで、数概念が生まれることになる。

 この仮説がそれなりに的を射ているとすれば、そもそもの数概念の誕生には手指が必須だったのかもしれない。特に重要なのは、棒や小石などとは違って、手指には固定された並びがあること、五本指の片手があることであり、これが順序性や纏まりに欠けた単なる一対一対応との違いを生み出した可能性がある。ただし上記のフプ語やユフプ語などを含むナダフプ(Nadahup)語族を例に取れば、手指を用いるからといって、大きな数詞や際限のない数唱がそう簡単に生じるわけでもないようだ。

 ナダフプ語族はアマゾン北西部のヴァウペス地方およびその周辺で話されており、マクー(Makú)語族とも呼ばれるが、フプ語とユフプ語に加えて、ナデブ(Nadëb)語とダウ(Dâw)語も含まれる*253まず(1)ナデブ語は最も単純な数詞システムを持っており、「一」「二」「三」のみが存在するが、しかし「二」は「3」や「少し」を意味することもあるなど、正確な数詞ではなく、また「一」には「一緒くたに」「まとまり」という意味もあり、どちらが元でどちらが派生なのか分かっていない(「二」「三」は語源不明)。他に「いくつか」「すべて」「たくさん」などの量化詞(数量詞)もある。次いで(2)ダウ語はもう少し複雑で、「一ヶ月」や「二人」など主に具体的な量を表す際に用いる「一」「二」「三」の数詞に加えて(一の語源は不明、二は「目の量」で三は「ゴムの木の種の量」)、4~10までを数えられる「きょうだいシステム」を持っており、これは主に集計に用いられる。3を超える数は「たくさん」と表現されることが多いが、物的対象の数を数える場合、手指のジェスチャーを伴って、「きょうだいがいる」で4・6・8・10の偶数、「きょうだいがいない」で5・7・9の奇数を表す。たとえば4の場合、片手の親指は折り曲げたまま残りの指を2本ずつ組にして立てて、それぞれの指に「きょうだいがいる」ようにする。5の場合、それに独りぼっちの親指も立てて「きょうだいがいない」と言う。6の場合、5を表していた手の親指にもう片方の親指も立ててくっつけて「きょうだいがいる」と言う。そうして10まで数える。この二つのシステムに加えて、10を超える数はポルトガル語から借用した数詞を用いることもあり、特に若者の場合、4~10までの集計についても、それが「きょうだいシステム」に代わって用いられる。最後に(3)フプ語とユフプ語は最も複雑なシステムで、やはり「一」「二」「三」の数詞に加えて、「四」も「きょうだい持ち(連れ添い持ち)」「連れ添いの量(きょうだいの量)」というような意味合いの数詞化された表現となっている。「三」は「ゴムの木の種の量」が語源だが、フプ語の方言では「三」が「きょうだい無し」という表現になっていることもあり、こうした表現はダウ語の「きょうだいシステム」と明らかに共通している。この独特の表現はヴァウペス地方全般において理想的な結婚形態である姉妹交換、異性のきょうだいが別の共同体の配偶者となった場合、その配偶者のきょうだいと結婚できるという文化に基づいている可能性が高いらしい。さらにフプ語では、5を超える数が正確に表現されることは滅多になく、基本的には「たくさん」と言われるものの、物的対象の数を数える場合、5~20については手足のジェスチャーが言葉と併用されることが多い。「五」は「一つの手」という言葉でそれなりに数詞として語彙化しているが、6以上を表す言葉はほとんど語彙化されておらず、たとえば6を表す際には「別の指が立つ」「別の指が立つ、一つ」など、7を表す際には「別の指が立つ、二つ」などと言いながら実際に、片手に加えてもう片方の手の指を相応の本数だけ立てる(手のジェスチャーをそのまま言葉にしているだけで、細かい言い方は固定されていないことから、数詞化していないことが分かる)。10を表す際は「別の指が立つ、一つの手(=五つ)」「指が終わる」「手が終わる」「両手」などと言う。それ以上は曖昧になり、11~14は「(別の、二つの、三つの、四つの)爪先が立つ」「足が立つ」、15は「一つの足が終わる」、16~19は11~14と同じ、20は「足が終わる」「両足」などと言う。5を超える数が語彙化されていないのは、それを表現することがそもそも稀だからであり、また特に若者の場合、その範囲に対しては、やはりポルトガル語からの借用数詞が好まれる。20を超える数や金額を表す場合もポルトガル語が使われる。ユフプ語もフプ語とおおむね同じようなシステムだが、16~19の表現には多様性があり、高齢ではない者の場合、すべての数詞にスペイン語からの借用数詞を使うことを好むという。(4)これらナダフプ諸語は「一」「二」「三」の語源がそれなりに明らかであり、文法化も進んでいないことから、元々は基本的な数詞がまったくなかった時代から、比較的最近にそれが生じた可能性がある。また「四」以上の数詞は近隣言語からの拡散により侵入した可能性が高く、これはナダハプ族が半遊牧民的な狩猟採集生活であるのに対して、近隣部族は(数詞が必要な)漁業や農業に頼って生計を立てており、互いの接触を通じた社会経済的な関係において、複雑な交易に対応できるように影響を受けたからだと推測されている。ポルトガル語からの借用数詞が「六」以上を引き継いでいる傾向についても、非先住民文化との接触の結果、交易関係における貨幣の数え方や時間の告知などに影響を受けたものとされる。とはいえナデブ族やダウ族は他部族から離れた周縁にいるゆえに、フプ族やユフプ族に比べて数詞が貧しい。

 このナダフプ語族の事例からは、Subitizingと関連する三までの小さな数詞、それ以上のジェスチャーを伴う数え方など、初期段階の数的文化の特徴が窺える。またそれと共に、10や20を超えていくには、自文化における発展にせよ、他文化との接触による影響にせよ、社会経済的要因が非常に重要であることも窺える。それが不足している場合、いくら手指を用いる計数システムを持っていても、数記号の一般化や自然数体系の構築は起こらないようだ。

 そのような社会経済的要因の重要性を特に強調しながら、大きな正確な数の表現やその概念的内容さえも、学習以前から存在する生物学的システムに依存して形成されるというような強い生得主義に対して、豊富な反証をまとめた論もある*255それによれば、(1)正確な数は多文化間で普遍的なものではなく、ピダハン族は大まかに相対的な数量の表現しかせず、他にも「一」以外の正確な数詞を持たない多くの言語、まったく正確な数詞を持たない可能性のある二つの言語が報告されている*256(2)数体系にも普遍性はなく、十進法以外にも二進法や二十進法はおろか、三進法や四進法や六進法といった形式*257あるいは「1・2・2+1・2+2・5・5+1・5+2・5+2+1……」と数えられていくような多基数システム*257+1の後者関数に基づく数列ではなく、「二と二と二」で「六」を表すような加法数列、「二が三つ」で「六」を表すような乗法数列*258おそらく貝通貨の数え方に由来して「四十五」を「五減らして十減らして二十を三通りに置く」と表現する文化*2599000を超える数を表現できる数え方を持っているにもかかわらず数えられない数もある計数システム*260さらには文化ごとに異なった指数えの様式など*261豊富な文化的多様性の証拠がある。(3)数の学習は子供にとって容易ではなく、教育番組や数を数えるゲームのある文化圏であっても、数詞の正確な意味を理解するには一年以上かかり、しかも相応に数を数えられるようになっても、数の知識をすべての数詞に一般化するには至らず、それは長く複雑な過程を必要とする。(4)数の習得時期は一様ではなく、たとえばボリビアの農耕採集民であるツィマネ族の子供も小さな数から一・二・三と段階を踏んで数詞を理解していくが、しかし先進工業国に比べて各段階を経る年齢が大幅に遅く*262その要因として、ツィマネ族の大人は乳幼児にほとんど話しかけないことが報告されているなど*263文化的環境の違いがある。(5)有史以来の記号的な数概念の発達もまた一様でも容易でもなく、紀元前三千年紀の終わり頃に純粋な数体系が出現するまでには、物質文化・社会経済的階層・人口密度・余剰の生産と管理といった社会文化的複雑性の増加が長期にわたる過程として蓄積されており、たとえば古代メソポタミアにおける行政管理上の会計の記録および定量化の必要性など、特定の社会政治的条件も重要な前提となる。(6)人類初期の数量表現システムは抽象的な概念や記号ではなく、手指などの身体部位*261刻み目などの物理的実体を用いており*264また実際、現代の様々な測定単位は歴史的には身体や道具など、具体的な起源を持っている*265(7)もちろん生物学的な基盤がまったくないということではないが、これらの証拠は数概念の生物学的決定論とは明らかに相反しており、社会経済的・文化的要因の大きさを物語っている。

 おそらく単純な数詞や集計システムを超えて、現代では学校教育で学習するような正確な記号体系や数学を発展させていくには、様々な経済活動が必須だったのだろう。しかし興味深いのは、経済的な取引をするようになれば、それに応じて基数原理や後者関数の知識が生まれていき、自然数体系の獲得へと近づいていくというわけでもないということだ。というのも上述のツィマネ族の場合、たとえ市場取引に参加している者であっても、非常に限定された数的能力しか持っていない。

 この点を報告した研究では*266まずツィマネ族の数的知識に関する調査のメタ分析の結果、正規教育をまったく受けたことがない子供(3~8歳の182人)の中に大きな数(5以上)を正確に表現できる計数能力保持者は一人もおらず、子供の段階でその能力を獲得するには教育が必要であることが示唆された。とはいえその一方、正規教育を受けたことがない成人(96人)の場合、半数以上(58%)が大きな数を正確に表現できる計数能力を保持しており、回帰分析の結果、不就学者および女性という属性に加えて、年齢が高いほど、遠隔地に暮らしているほど、計数能力が低いことが示された。ツィマネ族の場合、主に男性が市場労働や取引に従事するという伝統的な役割分担があること、市場統合の歴史が浅く、年長者ほど数値を扱う経済取引の経験に乏しいこと、遠隔地ほど市場都市から離れており、なおかつ正規教育を受けていない割合が高いことがその要因と推測された。つまりこの分析結果から、正規教育を受けていない成人であっても、市場労働や取引などを通じて、長い時間をかけて計数能力を習得できることが示唆された。この分析結果を踏まえた上での現地調査では、遠隔地の正規教育を受けていないツィマネ族であっても、地元市場において農産物販売者として活動する人々の場合、非常に興味深い特徴があることが判明した。その地元市場ではほとんどの商品が5の倍数の価格で取引されるのだが、それに参加する売り手(販売時に価格計算を行う人)は5の倍数を使った掛け算が非常に得意であり、その成績は5の倍数ではない一桁の足し算よりも優れていた。その一方、非売り手(販売を手伝うが価格計算はしない人)の場合、掛け算の成績は売り手よりも悪く、足し算に至っては大半の人がまったく正解できなかった。ちなみに計数能力に関しては11人中9人の売り手(82%)、7人中3人の非売り手(43%)が大きな数を正確に数えられる能力を持っていた。ただし売り手の場合でも、形式的な算術問題を出された場合(抽象的な「5×2は?」といった表現で訊ねる場合)は足し算も掛け算も等しく成績があまり良くなく、その一方、実践的な問題の場合(ヤシの葉葺き1個の値段は5ボリビアーノという前提の上で「ヤシの葉葺き2個だといくら?」といった価格を訊ねる場合)、足し算も掛け算も明らかに成績が良くなり、とりわけ掛け算の成績が非常に良くなった。これらの人々の場合、抽象的算術としての1+2よりも、価格計算としての5+10の方が簡単のようであり、しかも5の倍数が答えとなる実践的な価格計算の場合、足し算よりも掛け算の方がむしろ得意だった。追加の実験として、日常的な題材でありながらも価格計算は伴わずに、様々な被加数に1または5を足す問題(つまりx+1とx+5)を出したところ、その被加数(xに入る数)が5の倍数の場合、明らかに他の問題よりも成績が良かった。非常に興味深いことに、最も簡単な足し算であるはずの1+1でさえ正答率が七割程度であり、それは5+1や1+5や5+5よりも少し正答率が低かった。x+5の場合でも、xに5の倍数が入らない場合(たとえば6+5や14+5など)は正答率が低かった(ただし1+5だけは正答率が高かった)。この追加の実験も売り手の方が成績が良く、被加数が5の倍数の場合、x+1問題(5+1、10+1、15+1、20+1)では75%の正答率、x+5問題(5+5、10+5、15+5、20+5)では73%の正解率だったが、被加数が5の倍数ではない場合、x+1問題(たとえば6+1など)では62%の正答率、x+5問題(たとえば2+5など)では53%の正答率だった。以上のような結果は、5の倍数が特に重要な、+1の算術知識が必ずしも必要ではない柔軟な算術システムを示唆しており、記号的数処理における曝露頻度の重要性、文化的文脈の影響を強調している。さらに追加の事例研究として、10までの計数能力を持ち、少なくとも8までの基数性も理解しているにもかかわらず、算術は市場における価格計算としてしか(5の倍数の具体的な計算でしか)行えず、求められれば2個の物を手渡すこともできるにもかかわらず、算術問題としては1+1すら理解していない売り手がいることなども報告されている。このような事例は、大きな数を数えられるからといって、+1の加算ができるとは限らないことさえも示唆しており、ひいては数の知識の発達において、生得的な論理に基づいた普遍的な軌跡などはなく、高度な数的文化や教育に欠けている場合、その発達は必要性に応じた日常生活上の実践に基づいていることを示している。

 こうした文化的環境の多様性の中にピダハン族をふたたび位置付けてみれば、彼らが手指を使って数を数えたりしないのも、基本的にはそのような必要性のない生活様式を営んでいるからだろう。手指の区別が数える際の順序に重要であることから、指数えの習慣がなければ、各指の名前を付ける必要も生じないのかもしれない。何かを示す際に指差しをせず、平らな手のひらや頭や顎を使うのも、そもそも所持品などが少ないゆえに、細かく正確に物体を指示したり区別したりする必要がないからだと考えられる。しかしそうだとすれば、もしかしたらエヴェレットが八ヶ月間、ポルトガル語での10までの数え方、1+1や3+1といった簡単な足し算を教えても誰一人として理解できなかったというのも、臨界期・敏感期などの神経発達上の制約による学習不良ではなく、ただ単にピダハン族に本気でそれを学ぶ気がなかっただけという可能性も考えられなくもない。たとえば外国語を話せるようになりたいと願う日本人のうち、実際に長期留学をしたり海外生活を送ったりせずに、つまりそれを話すことが必要とされる環境に強いて身を置きはせずに、その能力を勉強だけで身につけられるのは、相当に本気で努力した人だけだろう。それと同じことなのかもしれない。


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※文献233以前は前回・前々回・前々々回を参照


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