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大人の押しつけがましさについて

 社会人になると出会いの数は少なくなるから学生時代の出会いは大切にしろ、とよく言われている。僕はこの学生時代の出会い、そして想い出を尊重すべきだという風潮が非常に嫌いである。中学、高校、大学時代の記憶はかけがえのないものだから大切にしなさいという主張はなんというか押しつけがましく感じるのだ。じゃあ学生時代に苦い思い出、嫌な記憶しか持っていない人間はどうすればいいのだという話。僕なんかはそりゃ学生時代に良いこともなくはなかったけど、圧倒的に思い出したくもない嫌な記憶の方が多い。そんな人間は素直に過去の交友関係や想い出を美化することなんか出来ない。卒アルなんかも見ていて大して感慨深くもなんともなかった。こうして書くと完全に社会からドロップアウトした人間である。

 たしかに社会人になれば知らない人間と出会う機会は減るのかもしれない、ただ、大人になってから出会った人間との関係が希薄になるかというと決してそんなことはないと思う。学校だって会社だってたまたまそこに居合わせただけの運であって、全ては運に左右されている。まあ会社はビジネス的人間関係も発生はするけど、そういうのを度外視して付き合えるほど良い人間もいる。学校には一度も話したくないような嫌な奴だっているし、会社には顔を合わせることが苦ではなく逆に楽しみだと思えるような人もいるにはいるだろう。いや学校で嫌な奴がいたら距離をおけるけど会社ではそうもいかないじゃないか、という反論もあるだろうが学校でもそういう避けたくなるような対面を強いられる状況は必ず発生する。これは僕が学校で部活という組織に所属させられていたから言えることかもしれないけど。部活っていうのは人間関係を構築することの面倒臭さを知るにはうってつけの組織なんだ。だから部活という制度が世界から根絶されたら多少は精神的ストレス疾患を患う人間が減少するだろう。
 

 学生時代の友人や想い出を過剰に自分の中で美化しているような人間はどうせ大人になってから嫌な上司に追い込まれて「あぁ~楽しかった学生生活に戻りてえなぁ~」と懐古している阿呆な連中だ。僕のように学生生活も社会人生活もくすぶったまま生きてきた人間のことを舐めているとしか思えない。これまで「社会人になってからも貴重な経験と出会いは出来る」みたいな論調で書いてきたけどあくまでそれは客観的観測上の話であって、僕は個人的に社会人になってからも交友関係は狭いし現状に満足出来ないしお先が真っ暗である。だからこんな状態で「学生の時は楽しかったんだろ?」という楽観的な認識をしてこないでほしい。どうにも大人は過去に栄光を求めがちである。この世のすべての人間が自分とは違う環境で生きているということは容易に想像出来るはずなのに、それを想像するだけの力と配慮が欠如した大人が多すぎると思いませんか。


おわり

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