私の認知的不協和

先日の「私おかあさんだから」騒動で認知的不協和という言葉を初めて知りました。
解説を読んで、なるほどー、これは確かに行きすぎると不健全な精神状態を生むわ…と納得。
でも確かにあるあるなのですよね。こういう変哲もない現象にもちゃんと名前がついているとは。その道の人々は偉いなぁ。

閑話休題。
たまたまその前日に女子会をやっていたのです。会うのが一年とか一年半ぶりとかで、まあ盛り上がった!久々に終電になってしまった。
で、主に近況報告…というか最近の恋愛事情できゃっきゃしてたわけです。
というか、友人による「ろくでもない男でした!!」という怒りの報告がメインだったのですけどね。ははは。

ただ、なんでか私「こういう事情だったのかも…」と男性を擁護してばっかりでね?
最初無自覚だったのですが、途中からなんかヘンだぞと自分でも気がつきました。

友人は怒ってるんですよ。
で、私は相手の男性を知らない。
なら無責任にそーだそーだひどい男だ別れて正解!!って同調しとけばいいものを、なんで私は顔も知らないろくでなし(伝聞)をせっせと弁護してるんだ?

帰り道にぼんやり考えてたんですが、そういえば自分ごとでもちょっとこういうとこあるなぁ、って気がつきました。

怒るのってエネルギー使うんですよね。
正しくはイライラもやもやしてる状態ってすごく消耗する。
だから相手の仕方ない事情を探したり、想像してみたりして、そんなわけならしょうがないか、と思ってやめる。
(もちろんやめられないことも多い)

怒るより許した方が結果的に楽、というのをどこかで読んだことがありましたし、体感するところもあって、そんなに悪いクセではないと思ってきたのですけど。

これ、認知的不協和、なのでは…?

もしこれがクセづいてるとしたら、私、日頃から積極的に自分で自分を追い込んでるのでは…

……………………(汗)

ゴールとして許しを目指すのは大事なことだと思うけど、その過程で怒ったりもやもやするのは必要なことなんですよね…
使うべきところである程度エネルギー使わないと、消化不良を起こす元になるし。

もちろん必要以上に怒り続ければそりゃ疲れるし、それはそれで健全でないだろうから、その時にこそ「もしかしたら」を考えなきゃいけない。

自分の段階を見極めて動く、ていうのが肝心なのよなあ、としみじみ思った次第です。

さて件の友人の段階はどこだったのやら。
怒りの段階だったのだとしたら、申し訳ないことしたなーとささやかな反省もしたのでした。

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