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『夢みる小学校』で得られるものを、とりもどす

「夢みる小学校」にいれば、「普通に」得られるものを、私(たち)は取り戻すための仕事をしているのかもしれないなぁ。
と、思いました。

今年の2月から公開されていたドキュメンタリー映画「夢みる小学校」。ここでは、文科省の学習指導要領を遵守しながらも、通知表や時間割がない伊那小学校、校則がほとんどない桜丘中学校、そして週の時間割がほとんど「プロジェクト」で占められているきのくに子どもの村学園の南アルプス子どもの村小学校と、ながさき東そのぎ子どもの村小中学校が出てきます。私も、4月の初めにこの映画を鑑賞しました。

特に「子どもの村」で行われている、「自由にやりなさい。責任は大人がとる」方針のぶっ飛んだカリキュラム(?)は、賛否両論あるだろうけれども、そこで育った中学3年生の二本足で立った凛とした”佇まい”は、ああ、人って、こうも育つんだ!と誰にも思わせる力があると思います。
50代の友人が「はじめは、子どもがここで育つとどうなるんだろう、と思って観てたけど、そのうち、自分がここにいたら、どうなってたんだろう、と思って観続けた」と言っていて、同感しました。

私は、普段、このnoteに書いてきたように、「資格試験受験勉強」を通して、自分の個性や置かれた環境を活かす、ということを追求しているし、
それから、ここには書いていないけど、話し合いに参加する人々の関係をフラットにする技術としてのファシリテーション・ワークショップを地域で行い続けることを追求する集まりにも参加していて、
でも、そこで追及していることって、この小学校では全部得られてしまうんですよね。
つまり、裏返せば、この小学校に通っていれば「当たり前」のことを、人生で得られなかったので、それを「得直す」仕事を、私(たち)はやっているのかもしれない、と思ったのでした。

じゃぁ、みんながみんな、こんな小学校になればいいか、というと、それはわからない。
実を言えば、私の家族の一人がここの中の人(「大人」と呼ばれる「先生」)なので、映画には現れない色々も聞いていて、難しいこともあるな〜・・・と思っているので、手放しで「ここを目指せ!」っていうのも違う気がしています。(中の人も試行錯誤しながら、何が良いことなのか、を目指して歩んでいます)

制度を変えるのも大事、既存のものと違うものを作り出すのも大事。
一方、既存のものの中で育っていて「傷ついてしまった」「得られなかった」ことを、なんらかの方法で埋めたり得たりしていくことも大事。
私がやっているのは、この「埋めたり」「得たり」を、資格試験みたいな勉強方法からもGetできるんだよ、みたいなことなのかな〜、と思います。


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