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なぜ?と問い続けること〜考えることを止めないと決めた日

そもそも自分の生まれてきた意味も
生きている意味もわからないのに

だから私にとってはあらゆることがなぜ?なのに
そう問うことは本当によく止められた。

(といって、じゃあ自分以外の人は生きる意味をわかっているのかといえばそうではなく、ただこんな風に思い悩まず生をあっさり受け入れられているので、そういう中でつきつめる態度はそりゃ異質に映るだろうと今ではよくわかる)

病院でもカウンセラーさんからも
家族も友人も恋人も
みんな、そんなに深く考えないほうがいいと。

中には、なぜ?と問い続けることは危険なこと
という人もいた。

それはたぶん私の幸せ(?)を思ってのこと。

なぜ?に突き進んでしまえば
普通じゃなくなるから
普通に生きられなくなるから
普通に人と関われなくなるから

つまり普通に留まらせようとしてくれたのだと思うけど。

だから私も
なぜ?は止めなくてはいけない
考えすぎることをやめなくては!と
ずっと思ってきた。

それでも、どうしても考えることを止められない自分を
「ダメだ」「病気なんだ」「治さなきゃ」
と思っていたからずっと苦しかった。


ある時、人生でもう何度目かもわからない
それでいて最大級の絶望におちいって

動けないほどうちのめされ、
また人に話してみたところで絶対に核心には触れようとしないあの気持ち悪さ・あの空虚感にいよいよ耐えられず、
生きていたいわけではないけど死のうとも思わないし(自死についてはその数年前に、自分には無理なのでもうチャレンジしないと決めていた)、

つまり何もできずただ生きてだけいながら
どうせなら、もうどうなってもいいならひたすら考えようと
頭だけは動くのだから徹底的に考えてやれ、と。

不思議なもので、そうしていたら
「それでいい。考えぬいていい。」といってくれる本に
初めて出会った。枯れるほど泣いた。

そこから私はすべて吹っ切れて
普通に生きようとすることからも吹っ切れて
結果的にものすごく楽になってしまった。

普通という枠をとびだしてみれば私は病気でもなんでもなかった。
(世間ではまあこういう人を病気というのかもしれないけど)

そこから恐る恐る哲学の世界に触れ
なぜ?と問いつづけていい世界があるということを、
これまた初めて知った。

なぜ?を問わない世界が私には合わなかっただけ。
そこでは私はとても生きにくかった。
話のできる人もいるはずがなかった。

だからといって、今
新しい世界でみんなとワイワイやってます♪
なんて話ではもちろんなく

そして多くの人が懸念したとおり
私はすっかり普通ではなくなったけど

ただ、なぜ?を他人に止められることもなく
自分を追いつめることもしなくて良くなって
は〜良かったな、と。
ちゃんと呼吸ができるようになった感じがするから
本当に良かった。

私の自由はこっち側にあった。




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