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【基礎教養部】山本圭「嫉妬論」を読んで〜嫉妬って何だろね?

自分の人生を振り返ってみると,選択の動機などに「嫉妬心」が介在した場面はあまり思いつかない.もちろん,小さい頃には自分が持っていないおもちゃやゲーム機,トレーディングカードなどを持っている友人を羨ましく思うことはあった.ただ,小学校4年生程度にて,ノートパソコンを自由に使えてしまう環境になってしまってからフラッシュゲームや戦略シミュレーションゲームなどに結構深く浸かってしまったので,他の友人と所有物を共有できるような遊びをすることが少なくなってしまった.もちろん,自分が一人っ子であり,いくら友人と交流しようとも自己完結できるような遊びを行うことが多いことも影響しているかもしれない.そのためか,勉強なども基本的には誰かと競うためにやるというよりも,「自分が実現したい目標などのために行う」という自己完結型の意識づけを行う傾向にあったので,例えば受験校の選定などに他者への嫉妬が介在した記憶もない.

当然ながら,子供の頃から比較的体格も大きく,また(学部受験は失敗してはいるが)社会全体から見ればある程度勉強もできる方ではあったと思うし,また自分の希望について親から強く反対され実現しなかったこともないので,そもそも他者と比較して場合において何かが劣後するような状況が比較的起こらなかったというのもあるかもしれない.
現在所属している,大学院博士後期課程においても幸運ながら奨学金にも通り,また比較的自由に研究ができる環境ではあるので,不満点なども特には思いつかない.他者に嫉妬するよりも,自分がやりたいことやったらいいじゃんという姿勢ではある.

金銭的な観点で言えば,もちろん奨学金の額は修士卒で働いている人の手取りよりかは幾分か少ないものではあるのだが,その分の時間的自由度,および百万遍周辺という環境を得ていると自己理解しているのでまあええかと思っている.支援機構の奨学金をNISAに突っ込めないかと試行しており,また専攻している分野的にも就職には比較的困らないので,後々手にいる額はそこそこのものになるという実感もある.死ぬほど働いてまで,それこそ使う時間がなくなるまで働きたくないし.

学士,修士の頃に所属していた大学は学費が高くて有名な私立大学というのもあり,いわゆるプチブルジョア的な家庭出身の人も多かった.例えば東京駅から30分圏内において実家がマンションを持っている友人もおり,東京に用事がある際にはよく宿泊に利用させてもらっている.普通なら,何も仕事しなくても土地管理だけで食っていけそうなその友人に嫉妬心を覚えるのかもしれない.ただ,自分の出身小・中学校はある程度歴史と規模がある中核市の中心駅から徒歩5分という結構特殊な立地条件をしており,家が稼業を持っていたりする人間は他の学校と比べてもかなり多かった.故に,会社で働くことが当たり前であり他の生き方は存在しえない,という認識は子供の頃から薄く件の友人(実は,祖父の代まで材木屋を営んでおり,その土地を使ってマンションにした)を見てもまあそんなもんかという感想の方が大きかった.

一つだけ,自分が嫉妬心を抱くような対象として,恋愛関係(異性関係)というのはあるかもしれない.例えば,やはり「何でこいつが!?!?」という男性が外見的魅力に優れた女性を傍らにしながら歩いているのを見た場合,正直心中穏やかではいられないのは事実である.また,直接的な知り合いの人間,および知り合いの知り合いといった間接的な知り合いの人間にそろそろ結婚を行う人間も出てくる年代ではある.そのような人間に対しても,正直なところを言えば他人に対しそれまで深い関係を構築できたという事実に対して羨ましいと感じざるを得ない.自分自身,定常的な関係を持った女性は一人しかおらず,必ずしも恋愛関係が豊富とは言えないというのもその嫉妬心が発生する契機となっているのかもしれない.ただ,どうしても「今感じている不満足感を解消するならば,どのような行動が必要なのか?また,何が足りていないのか?」という思考へシフトし,嫉妬心がそれこそ表に出ることはあまりない.

このように,自分自身において「嫉妬」という感情ほど扱いにくく,また曖昧模糊としていな感情はない.いまだに理解している状態とは程遠いのが現状である.この「嫉妬論-民主社会に渦巻く情念を解剖する」を読んでも,それは変わらなかった.ただ,嫉妬を抱いたとしてもそれはごく自然なものなのだという安心感は確かに得られたように思う.

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