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口下手な人

3月30日

彼の演奏するオルガンを聴いた日。


彼の春コートから伸びるワイドパンツが
ふんわりと動く。
赤ちゃんの乗っている車を運転している時
優しいブレーキを踏むように、
ゆっくりとペダルを踏んで風を送る。
エッヂのない、どこか不安定な、
それでいて包まれるような音が響く。

対角線上に座る観客の女性が
目を閉じて聴いている。
私も同じようにしてみる。
目を閉じる。



マインドフルネス療法をしてみよう。
心理学専攻の大学院卒である私は
院生時代を思い返す。

地面に足がついている。
そこから上に脚が伸びている。
末広がりのテーパードパンツの裾が
風で揺れている。
丈が短いので、少し肌寒い。
膝が曲がって、太ももがある。
太ももとお尻が椅子についている。
そこから背中が伸びて、
椅子の背もたれに背中がついている。
腰は曲がらず、据わっている。
膝の上に両手がある。
指と指を絡ませて、そこにある。
両手から両腕が伸びて、肩がある。
まるでぷにぷにほっぺが大好きだったあの子みたいに
私の首元と頬を風が撫でて、少しくすぐったい。
「今、ここに居る」

目を開ける。



よく見ると、20名程度の観客は、
皆ショートヘアだ。
ショートヘアの集会かのように、
あの男性もこの女性も、
隣にいる恋人も私も、
オルガンを弾いている彼もショートヘアだ。
彼の演奏会には
俗に言う『個性的な人』が集まるようだ。
おそらくいつもは「浮いている人たち」が、
この場は誰として「浮いていない」。
『世渡り上手』が居たら、浮いていただろう。



そんなことを考えていたら
あっという間に40分が過ぎた。
彼は立ち上がって、辿々しく喋った。
そうか、彼は音楽で語る人なのか。


私は心からの拍手を送った。

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