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平泉澄に猛省を促した高僧 或いは人格攻撃

 「平泉澄氏の猛省を促す」という強烈なタイトルの論文が『大日』(大日社)1939年10月号に掲載された。筆者の村上素道(西暦1875~1964年)は曹洞宗の僧侶で、長崎の皓台寺住持である。現代仏教家人名辞典刊行会編『現代仏教家人名事典』(現代仏教家人名辞典刊行会、1917年)には「実に師が十年一日の如く教運の興隆に力めるの功労は著しく、徳聞日に弥々高し」(331頁)とある高僧だ。猛省を促されている平泉澄(1895~1984年)は東京帝国大学教授で国史学者である。
 平泉は1939年5月9日に軍人会館で行った菊池勤王顕彰会(菊池氏はいわゆる南朝の忠臣として名高い肥後の豪族)での講演を行い、その筆記「菊池氏勤王精神の淵源」が『日本及日本人』(政教社)1939年7月号に掲載された。その内容に村上は異を唱えたのだ。要は平泉の研究への批判であり、学問上ごく当たり前の論争のはずだが、それにしては穏やかでないタイトルである。
「平泉澄博士の猛省を促す」(以下、「猛省」)での平泉批判は多岐にわたるが、その主要な論点は、菊池武時の「勤王」は禅僧・大智禅師の感化によるか否かである。菊池武時は大智の感化によって「勤王」に目覚めたとする通説に対して、平泉は武時と大智には関係がないとして異を唱え、そもそも大智は「それほど國體に徹底せる人物ではない」とした。それを村上は座視できなかった。
 村上によると、大智の「勤皇」(村上は平泉の講演筆記の題を「菊池勤皇精神の淵源」と不正確に引用している。平泉は「勤王」表記を、村上は「勤皇」表記を用いる)は「久しく国民的信仰になつて」いて、知人が「早く反駁せぬか、他は皆貴下に遠慮して差し控へてをるのだ」と「頻りに喧ましくいうて来る」ため、平泉に「一大猛省」をなさしむべく筆を執ったという(9頁)。村上は後に「徒手空拳」で廃寺となった聖護寺を復興させる(1942年)が、その聖護寺こそ、大智禅師が菊池氏の寄進を受けて開いた寺なのだ。一方の平泉は、男爵・菊池武夫らの信頼を受けて菊池勤王史の編纂を託された東大国史学の権威である。両者にとって、菊池氏・大智の「歴史」は他人事ではなかったのである。


1、猛省を促す人格攻撃

 まずは村上の独特で激烈な文言(ロイヤルストレート人格攻撃を含む)の一部を見てみよう。本稿では平泉と村上の実証における主張には踏み込まないつもりだったが、ここで村上の言を紹介する中で、部分的に論争の中身を垣間見ることが出来よう。

博士は感情的な偏執を有つ人らしい、率直に言へば「勤皇の御大事を僧侶等から教はつてたまるか」、といふ御偏執があるらしい、併し僧侶となつたからとて異民族に変質する訳ではありますまい

8~9頁

失礼乍ら博士は一種の妄断辟があると思ふ

9頁

博士は大智禅師を除外せねば菊池氏の誠忠が現はれぬものの如く妙な偏執を有たれるが、それは例の走路などに勤皇精神が有るものかといふ感情に駆られてをられるから「大智が反つて菊池氏の感化を受けた」などと妄言を吐かれるのだらう

11頁

(引用者注:平泉は大智が肥後出身であることを記憶していないと非難した後に続けて)何事も世の中の事は順序があり、連絡があり、因縁がなくてはならぬ。人事百般、時と、処と、人とを離れて事は成り立たない、博士は此根本的観念が欠如してゐる、此根本的観念が欠如してゐるやうでは六百年前の史実を洞察し、研究することは覚束ない次第だ、又僧侶は僧侶としての道誼観念といふものがある、それを知らない歴史家は能く取違へる事がある、僧侶は幾分在俗とは違ふ処がある、例せば勤皇の御大事でも俗世間では多くは格別な一大事だと思ふ、然るに僧侶では勤皇の御大事は朝三暮四の事、家常底の事として各別の事とは思はない(中略)それを外面から透視する力がなくては歴史家とは言へまい

12頁

此れ位の起請文(引用者注:菊池氏六人が大智に「恭敬の至極」を尽くした起請文)を読んで「大智がむしろ菊池氏から感化を受けた」などいふてるやうでは歴史家と許すことは出来ない

19頁

武重公の筆たることは博士も疑はないのだから、して見ると偽物といふ文字は間違ひだらう、偽筆と云ふべきだ、扨此処らが博士の偏執妄断といふ処だ、(中略)博士ともあらう人が人格に拘りませうぜ、(中略)
「博士かとて堂々たる天下の文学博士だ、マサカ公衆面前で嘘と知りつつ喋々する筈もあるまい、何かの文書と感(原文ママ)違ひされたのであらう、感情が先に働くとさうした感違ひがある、物の正視が出来なくなる

20頁

斯ういふ麗しい詩(引用者注:元の皇帝が元に留学中の大智に帰国を許した詔に感謝を表す詩)に対して「皇恩」の二字についても日本僧として支那の朝廷に皇恩を感ずるやうでは「國體を考ふる上に於てまことに慎重を欠いてをる」、と言はれるが何んといふ迷論であらう、それだと日本人は外国の帝王の恩恵を受けては悪いと言ふのか、博士の國體観念とか皇恩とかいふものは余程妙なものだ、それだと今人が外国に遊んで功勲を策て名誉を博して其国王から勲章を授かり賞与を受けることはならないといふのか

24頁

 平泉への人格攻撃としては「感情的」「偏執」「妄断辟」などが挙げられ、「歴史家」としての資質にまで疑義を呈している(※1)。

2、足利「高氏」表記への批判

 さらに、論争の主戦場たる大智禅師から派生して、村上の平泉批判は平泉の足利尊氏論にまで及ぶ。周知の通り、足利尊氏は、もと「高氏」と名乗っていたのを、後醍醐天皇の諱の一字を与えられて「尊氏」と改めたが、後に後醍醐天皇と敵対した。尊氏の謀叛を厳しく咎める平泉は、尊氏を「高氏」と表記している(平泉は尊氏が天皇に反旗を翻した時点で「尊」の字は取り上げられたと見なしているが、その説明は「菊池氏勤王精神の淵源」ではなされていない)。
 大智が尊氏に仏教興隆への貢献を賞賛する詩を送ったことから、「この人が真に國體に明らかであつたといふことは何うして之を云ふことが出来るか」と批判する平泉を、村上は「失礼ながら其高論卓説は的が外れてをります」(26頁)と嘲り、さらに平泉が尊氏を「高氏」と表記することにも筆誅を加える。

博士は又尊氏を高氏と直して筆罰を加へてをられるが、其意は諒とするも、其事は越権の沙汰と申さねばならぬ、(中略)然れば勅諚によつて尊氏と賜はつたのである、爾れば六百年来我国史に尊氏といふ者はあるが高氏といふ者は無い、博士といふものは何れ程の権限を有せられているか知らないが、六百年来の国史を何うする事も出来まい、又道理の上からいうても、斯くまでに忝き皇寵を蒙り乍ら其大恩を忘却したといふ処に尊氏の反逆があるではないか高氏の原名に復せば皇恩の忝きも自然に消滅し、彼の叛逆の罪は軽減されることに成る、さういふ必要は更にない、反逆人は反逆人である時四海万民の教材となる、決して高氏に直して彼を赦す必要はない

26~27頁

 勅諚によって決まった「尊氏」表記を一博士が改めるのは越権であること、「尊氏」の名前のままで表記することで却って大恩ある天皇を裏切ったことが明らかになるため、わざわざ「高氏」に戻してやる必要はないことが、村上の主張である。論争の主題からは外れた内容だが、ある程度は筋が通った批判であるように思われる。(※2)

3、猛省なんて、するわけない

 「猛省」が発表されてから約半年後、平泉は菊池氏研究を『菊池勤王史』(菊池氏勤王顕彰会、1940年)にまとめて世に問うた。そこで平泉は村上に反論することも自説を翻すこともしていない(菊池氏の寄進状の解釈の先行研究として村上の著書『大智禅師』が挙げられているのが、本書での唯一の村上への言及である。「菊池勤王精神の淵源」で大智の出身地を明記しなかったために村上から「記憶していない」と難癖をつけられたからではあるまいが、大智の出身地は明記してある)。
 村川への反論は、平泉の高弟・平田俊春(1911~1994年)が行った。彼は「大智禅師に就いて ――村上素道氏の蒙を啓く――」を『日本及日本人』1940年1月号に掲載する。彼は「自説を堅持」し、「激烈な文章を発表」する村上に宣戦布告した。

之は全く従来の俗説をむしかへされたもので、学術上一顧の価値なきものなること、史学に素養のある人の一目瞭然たるところであつて、余りに馬鹿げた議論なるため、之に答ふるは宛も三歳の童子に物を教へる如く寧ろ困難を感ずるのであるが、しかも之を放置すれば、村上氏自身は自説の非を悟らず、今後ますます誤を重ねられ、世間にも迷惑をかけるであらうことを憂へて、敢てここに禿筆を駆り、以て氏の蒙を啓かうと思ふ。

126頁

 もはや売り言葉に買い言葉である(なお、この論文は後に平田の著書『吉野時代の研究』(山一書房、1943年)に収録されるが、そこでは表現がややマイルドになっている)。
 平田は村上の菊池氏・大智論について反論を行い、足利尊氏論には容赦のない非難を浴びせる。尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺を建てたことなどを「善事」とし、尊氏を「北朝からすれば忠臣」と安易な議論を展開することに対して、「村上氏の如き國體に全く無理解なる僧の存することを恐れざるを得ない」(136頁)とまで極言した。

その後

 その後、論争が続いた形跡はなさそうである。戦後、村上はおそらく「蒙を啓」くことなく逝去し、平泉は「猛省」することなく世を去った。そして、平泉学統の流れを汲む雑誌に掲載された中山廣司「大智禅師」(『日本』日本学協会、1988年9月号)にて、この「大論戦」が回顧される。 

今となつては、五十年前の「勤王僧大智」をめぐる大論戦(村上氏の感情的独り相撲の感が強いにせよ)も、心底羨ましい限りに思はれてならないのである。何故ならば、誰れしもが同様に日本人として、国体の誇りある認識の上に立つて論じてゐたのであるから。

28頁

(※1)
「僧侶は僧侶としての道誼観念といふものがあ」るとし、在俗の歴史家はそれを取り違えるという村上の主張は、一見すると「僧侶のことは僧侶にしか分からない(から在俗の歴史家に分かるわけがない)」という偏狭な主張に見えるが、平泉も「我が意志によりて組織し、我が全人格に於いて之を認識し、我が行を通して把握するが如きは、祖国の歴史にあらずんば、即ち不可能である」(『国史学の骨髄』至文堂、1932年。12頁)と「日本歴史は日本人にしか理解できない」旨を主張しており、その点で両者の持論には共鳴する所がある)

(※2)
 尊氏表記のままの方が謀反の本質が明らかになるという村上の主張からは、「“大東亜戦争”という名称は侵略戦争を正当化するものであるため、使うべきでない」という議論に対する反論、「大東亜解放の美名を掲げながら、国益のため東亜に惨禍を齎したのではないか。その欺瞞性がよく表れた“大東亜戦争”を使うことこそが適切である」に似たものを感じる。完全な余談である。


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