湯川椋太「「皇国史観」と「祖国のために死ぬこと」 : 平泉澄の「神道」について」について
はじめに
湯川椋太(敬称略。以下同じ)の論文「「皇国史観」と「祖国のために死ぬこと」 : 平泉澄の「神道」について」(龍谷日本史研究/龍谷大学日本史学研究会『龍谷日本史研究』運営委員会 編. (42):2019.3,p.44-74.)は、歴史学者・平泉澄の言説の中で「祖国」観念が「死の言説」に「倒錯」することについて論じたものである。昆野伸幸の平泉研究を基本ベースとしつつ、国家概念に関するピエール・ルジャンドルの議論と「祖国」に関するエルンスト・カントロヴィッチの議論を援用して、湯川は平泉の議論の「倒錯」を論じた。
湯川は第三節まで平泉の「人格」概念について論じた後、第四節・第五節で主題と神道との関係についての論述が現れるのだが、その中には看過しがたい瑕疵がある。それは、平泉が他の論者の言説を紹介しただけの文章を平泉の言説として扱って立論している点である。
1、第四節での誤紹介 (平田篤胤)
まずは第四節を見てみよう。(太文字部:元論文でインデントが下げられている引用部)
ここで湯川が引用しているのは『伝統』(1940年、至文堂)所収「真の日本人」であるが、ここの引用内容は平泉が江戸後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の著書『気吹於呂志』の概要を紹介したものである。平泉による平田篤胤の説の紹介は「即ちその大要はかうである」(18頁)から始まり、「これ気吹於呂志に説かるゝ所の大要である」(19頁)で終わっており、その部分が平泉自身の所説ではないことは誰が見ても明らかである(しかも、「これ気吹於呂志に説かるゝ所の大要である」は湯川の引用部のすぐ次の文である)。ここで平泉は篤胤の議論を好意的に紹介してはいるものの、だからといってそれをそのまま平泉の所説として紹介するのは不適切であろう。この引用部から導き出した湯川の議論の説得力も失われざるを得ない(せめて引用部を篤胤の説を平泉が紹介したものだと説明したうえで、平泉も篤胤説に同意していることを説得的に論じることが出来ていなければならない)。
2、第五節での誤紹介(根本通明・遊佐木斎)
同様の凡ミスは第五節でも2か所ある。それは、平泉が「忠君」と「愛国」とをいかに接続したかという、実に興味深い問題について論じたところにある(余談ながら、これは私も探求してみたい論点である)。
平泉において「神道」の実践こそが忠君と愛国とを架橋するものである、という意欲的な結論が導き出されているが、ここでも平泉の説として引用されているのは、平泉が別人の説を紹介した部分である。
前半部の引用は平泉が『万物流転』(至文堂、1936年)所収「不易の準則」で、漢学者・根本通明(1822~1906)の著述「読易私記」の内容を紹介したものである。その紹介は「その説は、周易象義弁正巻首載する所の読易私記に詳らかである。今之を略述すれば大要以下の如くである」(152頁)から始まり、「以上は根本博士読易私記の大要である」(164頁)で終わる。湯川の引用は155頁からなされている。
後半部の引用は同書所収「天地の常経」で、江戸時代中期の儒者・遊佐木斎(1659~1734)が幕府の儒員・室鳩巣に反論した内容を紹介したものである。その紹介は「木斎にして若しよく崎門の正学を伝え得たりとするならば、必ず之に対して堂々の筆陣を張り、僻説を論破して大義を宣揚せねばならぬ。果せるかな、彼は同年六月十八日、再び一書を裁して之に答へた。その要旨は左の通りである」(201頁)から始まり、「以上は木斎が鳩巣に答ふる書の大要である」(213頁)で終わる。湯川の引用は202~203頁からなされている。
ここでもまた、湯川は平泉が他人の言説の大要を紹介した部分を平泉の言説として紹介し、それをもとに議論を進めるという誤りを犯している。平泉は根本通明・遊佐木斎を好意的に紹介しているとはいえ、平泉が彼らと同意見であるとした上で湯川が議論を進めるならば、「平泉が根本・遊佐の説をそのまま受け入れている」という仮説の挙証責任は湯川にある。それを怠った上での湯川の所説は、やはり手続き的に不備があると言わねばならない。
おわりに
以上の指摘は、論文内容の発表や、同業者コミュニティ内でのやり取りで既になされているものであると思われる(私が気づく程度のことにアカポス持ちの研究者が気づいていないはずはない。今や平泉研究はレッドオーシャンであろうからなおさらである)。その指摘を改めて行い、ネットの海に放流することは、正直あまり上品な行いではない。しかし、CiNiiで「平泉澄」と検索して上位にヒットし、他の論文でも信頼できそうな先行研究として挙げられている論文に、かくの如き明らかな誤りがあることは、やはり見えるようにしておくに越したことはない。平泉の所説でないものが平泉の所説であると紹介されているということに気づくことは、ある程度平泉の著書を読んでいないと困難であろうと思われるため、誤解が拡散する可能性は高い。
本稿の目的は、この論文の議論の内容を紹介することや、議論の是非を論じることではない……と初めに書きたいところではあったが、人様が苦労して書いた論文に「多少平泉の著書を知っていれば誰でも気づける程度の指摘」でケチをつけるだけでは、あまりに性格が悪すぎる。故に、最後に内容にも少し突っ込んでみたいと思……ったが、書くモチベが残っていない。罪滅ぼしに(却って罪責を重ねているが)簡単な所感だけ以下に述べる。
所感(以下、有料部)
湯川論文の国会図書館でのコピー代を恵んでくださるという奇特な方だけ、以下を読まれるとよい(内容は乏しいことは予め断っておく)。
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