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湯川椋太「「皇国史観」と「祖国のために死ぬこと」 : 平泉澄の「神道」について」について



はじめに

 湯川椋太(敬称略。以下同じ)の論文「「皇国史観」と「祖国のために死ぬこと」 : 平泉澄の「神道」について」(龍谷日本史研究/龍谷大学日本史学研究会『龍谷日本史研究』運営委員会 編. (42):2019.3,p.44-74.)は、歴史学者・平泉澄の言説の中で「祖国」観念が「死の言説」に「倒錯」することについて論じたものである。昆野伸幸の平泉研究を基本ベースとしつつ、国家概念に関するピエール・ルジャンドルの議論と「祖国」に関するエルンスト・カントロヴィッチの議論を援用して、湯川は平泉の議論の「倒錯」を論じた。
 湯川は第三節まで平泉の「人格」概念について論じた後、第四節・第五節で主題と神道との関係についての論述が現れるのだが、その中には看過しがたい瑕疵がある。それは、平泉が他の論者の言説を紹介しただけの文章を平泉の言説として扱って立論している点である。

1、第四節での誤紹介 (平田篤胤)


 まずは第四節を見てみよう。(太文字部:元論文でインデントが下げられている引用部)

 平泉にとって「日本精神」は、日本という国家の存立を支える根拠であり、同時に日本人であることの理由である。そして「日本精神」は「神道」として語られ、その内実は
神道の本意は、皇国の天皇の尊厳を弁えて一向に畏み奉り、厚く古の伝えを守りて、神祇を尊び、雄武を旨とし、君に対しては絶対の忠をいたす事、これ神道の大本であるに反し、儒教に於いては道の大本たる君臣の道徳立たず、放伐の悪行頻出して、しかも之を蔽はんが為に、天命を説き、革命を唱へるのであり、また仏教に於いては此の世を穢土と厭ひ、火宅と嫌つて、君臣の道を取らず、親子夫婦の愛情をも否定して家を出て山に入り、樹下石上を住所とするのであるから、此の神仏儒の三道が同じ山の頂にのぼるわけもなく、同じ谷川の水に落つる道理もない。
というように、「国体の大義」「日本の道義」に殉ずることであり、それは仏教や儒教とは異なる日本独自の「道」として説かれている。

62頁

 ここで湯川が引用しているのは『伝統』(1940年、至文堂)所収「真の日本人」であるが、ここの引用内容は平泉が江戸後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の著書『気吹於呂志』の概要を紹介したものである。平泉による平田篤胤の説の紹介は「即ちその大要はかうである」(18頁)から始まり、「これ気吹於呂志に説かるゝ所の大要である」(19頁)で終わっており、その部分が平泉自身の所説ではないことは誰が見ても明らかである(しかも、「これ気吹於呂志に説かるゝ所の大要である」は湯川の引用部のすぐ次の文である)。ここで平泉は篤胤の議論を好意的に紹介してはいるものの、だからといってそれをそのまま平泉の所説として紹介するのは不適切であろう。この引用部から導き出した湯川の議論の説得力も失われざるを得ない(せめて引用部を篤胤の説を平泉が紹介したものだと説明したうえで、平泉も篤胤説に同意していることを説得的に論じることが出来ていなければならない)。

2、第五節での誤紹介(根本通明・遊佐木斎)

 同様の凡ミスは第五節でも2か所ある。それは、平泉が「忠君」と「愛国」とをいかに接続したかという、実に興味深い問題について論じたところにある(余談ながら、これは私も探求してみたい論点である)。

平泉は『万物流転』(一九三九年(引用者注:原文ママ))のなかで、
仁義忠孝を教へられて苟くも義を知るに至れば、その君をおろそかにする事は出来ない筈であり、仮に大逆の者にあつて、君を犯し奉る事ありとすれば、則ち天下を挙げて之を仇とし、相牽引して以て之を誅し、義、必ず共に天下を戴かないに相違ない。
と述べ、「仁義忠孝」という儒教的要素を用いて天皇への忠誠を説明する。
 平泉の「日本精神」におけるこのような儒教的要素はすでに指摘されているところではあるが、平泉にとって忠君の問題は儒教ではなく「神道」によって説明されている。
我が国に於いては、神々よく神理に通じ、天道に合し、自ら天下の君と為り、天下後世を教へられるのである。よりて後世之を神道としてたつとぶのであるが、神といひ、天といひ、人といひ、皆一理なるが故に、或は之を天道といつてもよく、また人道と称しても差支ないであらう、たゞ神々の教へ給ふ所なるによつて、神道と称し来るのみである。人倫を正す本旨よりいへば、固より儒教と異なるところはないのであるが、初め儒といふ名のなかつた以上、之を儒道といふべきではなく、之を我が国の神道といひ、我が神州の道をいはなければ、一体之を何といふべきであるか。
 「日本精神」を国粋的に強調する平泉は、やはりここでも儒教を採用することはなく、あくまでも「神道」こそが「日本精神」の内実だという。なぜなら、「神道」は天皇への絶対的な忠誠という「真の日本人」が仕えるべき「道」であると同時に、「神国」日本という共同体の同一性、永続性の根拠なのであり、この「神道」を実践することで、天皇への忠君と日本への愛国が結びつけられるからである。

66~67頁

 平泉において「神道」の実践こそが忠君と愛国とを架橋するものである、という意欲的な結論が導き出されているが、ここでも平泉の説として引用されているのは、平泉が別人の説を紹介した部分である。
 前半部の引用は平泉が『万物流転』(至文堂、1936年)所収「不易の準則」で、漢学者・根本通明(1822~1906)の著述「読易私記」の内容を紹介したものである。その紹介は「その説は、周易象義弁正巻首載する所の読易私記に詳らかである。今之を略述すれば大要以下の如くである」(152頁)から始まり、「以上は根本博士読易私記の大要である」(164頁)で終わる。湯川の引用は155頁からなされている。
 後半部の引用は同書所収「天地の常経」で、江戸時代中期の儒者・遊佐木斎(1659~1734)が幕府の儒員・室鳩巣に反論した内容を紹介したものである。その紹介は「木斎にして若しよく崎門の正学を伝え得たりとするならば、必ず之に対して堂々の筆陣を張り、僻説を論破して大義を宣揚せねばならぬ。果せるかな、彼は同年六月十八日、再び一書を裁して之に答へた。その要旨は左の通りである」(201頁)から始まり、「以上は木斎が鳩巣に答ふる書の大要である」(213頁)で終わる。湯川の引用は202~203頁からなされている。
 ここでもまた、湯川は平泉が他人の言説の大要を紹介した部分を平泉の言説として紹介し、それをもとに議論を進めるという誤りを犯している。平泉は根本通明・遊佐木斎を好意的に紹介しているとはいえ、平泉が彼らと同意見であるとした上で湯川が議論を進めるならば、「平泉が根本・遊佐の説をそのまま受け入れている」という仮説の挙証責任は湯川にある。それを怠った上での湯川の所説は、やはり手続き的に不備があると言わねばならない。

おわりに

 以上の指摘は、論文内容の発表や、同業者コミュニティ内でのやり取りで既になされているものであると思われる(私が気づく程度のことにアカポス持ちの研究者が気づいていないはずはない。今や平泉研究はレッドオーシャンであろうからなおさらである)。その指摘を改めて行い、ネットの海に放流することは、正直あまり上品な行いではない。しかし、CiNiiで「平泉澄」と検索して上位にヒットし、他の論文でも信頼できそうな先行研究として挙げられている論文に、かくの如き明らかな誤りがあることは、やはり見えるようにしておくに越したことはない。平泉の所説でないものが平泉の所説であると紹介されているということに気づくことは、ある程度平泉の著書を読んでいないと困難であろうと思われるため、誤解が拡散する可能性は高い。

 本稿の目的は、この論文の議論の内容を紹介することや、議論の是非を論じることではない……と初めに書きたいところではあったが、人様が苦労して書いた論文に「多少平泉の著書を知っていれば誰でも気づける程度の指摘」でケチをつけるだけでは、あまりに性格が悪すぎる。故に、最後に内容にも少し突っ込んでみたいと思……ったが、書くモチベが残っていない。罪滅ぼしに(却って罪責を重ねているが)簡単な所感だけ以下に述べる。

所感(以下、有料部)


 湯川論文の国会図書館でのコピー代を恵んでくださるという奇特な方だけ、以下を読まれるとよい(内容は乏しいことは予め断っておく)。

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