【歌詞考察】Nothing To Say / Helloween
不躾に申し訳ないのだが、私は、海外の音楽の翻訳行為が好きだ。
日本語の歌詞なら一瞬でわかることも、海外の歌(洋楽)となると、すぐには理解できない。だからこそ、何を歌っているのかが気になる。調べずにはいられない。
日本版には対訳もつくのだが、昔のLPに付いていた対訳はいい加減もいいところで、モノによっては対訳不能などとふざけた言い訳で翻訳をサボっているものさえあった。
訳のわからない歌詞こそ、作詞者が何を考えて作ったか知りたいんじゃん。プロの翻訳家がサボってんじゃねぇ!と、子供の頃から思っていた。
間違っていてもいいから、自分で翻訳してみたい。
中学生の頃から、そういう感覚で海外の歌の対訳を調べ、何を歌っていて何を伝えようとしているのか、その意図を知りたいという欲求に駆られていた。それは今も変わらない。
という訳で、以前から別のBlogではやっていた事ではあるが、このNoteにも今後もいくつか、自分が気に入っている曲や気になった海外曲の対訳を行い、自分なりの思いを記していこうと思っています。
翻訳精度は高いとは思えないので、英語力の高い皆さまにおかれましては、そこは笑って許してあげてください。
”Nothing To Say”という異端曲
今回ご紹介するドイツの老舗ヘヴィメタルバンド、Helloweenの曲、”Nothing To Say”は、誤解なきように申し上げると「彼らのアイデンティティとしているスタイルからは割と離れた異端曲」である。彼らは、いわゆる「メロディック・スピード・メタル」の開祖であり、流麗なツイン・リード・ギター、メロディアスで扇動的な楽曲構成、ツーバスの鳴り響くハイスピードチューン……と、今回取り上げている曲とは割とかけ離れたスタイルを本来得意としているバンドだ。この曲”Nothing To Say”は、収録された彼らの10th アルバム「Rabbit Don't Come Easy」のラストに収録された、作詞・作曲者でありギタリストのマイケル・ヴァイカート(以降、彼のニックネームである”ヴァイキー”を使わせていただく)の趣味のような曲である。彼らを人気バンドたらしめている要素はあまりない、どちらかというとヘヴィメタルではなくハードロック色の強い曲であるし、サビではスカっぽい曲展開も待っており、ゴリゴリのヘヴィメタルを期待するであろうファンにとってはひょっとしたら肩透かしかも知れない。この”Nothing To Say”とは、そういう変わり種の曲である。
※当時の事情で、この曲が収録されているアルバムの大半の曲で、かのミッキー・ディー(MOTORHEADやScorpionsでドラマーやっていたりする人物)がドラムを務めておられたりはするが、本エントリーとしてはオフトピックなのでそれ以上は触れない。
歌詞対訳
この曲の個人的な対訳を、パートに区切って以下に記載する。
このアルバムの日本版をお持ちのかたは、Marie西森さんの対訳のほうがずっとセンスがあると思うので、特にご覧になる必要は無いかも知れない。
この歌は、実際は作曲&作詞者であるヴァイキーが割合得意とする、「異性とうまくいかなかった」ことを歌った歌である。得意とする、と書いてしまってはご本人に失敬かも知れないが、このバンド初期から彼は哀愁溢れるバラード(”A Tale That Wasn't Right”だとか、”In The Middle Of A Heartbeat”だとか、”If I Knew”だとか)でこういった曲を書いてきている。この歌の1番では、恐らく古馴染みであった異性から連絡があり、長年の思いが蘇って付き合いを再開した男性(たぶんきっと、ヴァイキー本人……)の喜びが表現されている。続きを見てみよう。
この歌の歌詞のポイントとなるキーワードは、”circumstance”(事情、状態、状況を意味する)である。作詞をしたヴァイキーは、この歌の重要な部分をこの単語で曖昧にしてぼかしている訳だが、要するにこの単語の使われ方としては、「付き合いがうまくいかないという結果が出た状況=要は破局」を指している。それは、この、うまくいっている段階の1番において、「If it wasn't for(もし~でなかったら)」の対象として”circumstance”が使われていることから推測できるであろう。
一見しっくり来ない一文である「Much better anyways than watch or stroll round everywhere」だが、恐らくは、カップルのパターンでもあるありきたりのデートをすることなんかより、2人が以前から深く知り合っていて、様々なことを共有し共感できることのほうが重要だ、と書きたかったのだと思われる。
この曲のサビにあたるパート、その1。歌詞1番において”Nothing to say”とは、本人が幸せに満ち足りていて何も言うことがないことを表す。We got it there、俺達はやったんだという素直な喜び、”A long long way”に表される、男としてのその異性に対する長年の思い、それが right in our hands(手の中にある) と書いている。幸せ以外の何者でもない。男性(女性もだろうが)にとって、意中の異性と共に歩める喜びにまさるものは、そうそう中々あるものではないのだから。恋愛小説やマンガであれば、まさしく告白が成就して付き合い始めたカップルの回のような展開である。
英語を日本語訳する際に困る単語の一つ、それは”use”である。Guns N' Rosesの「Use Your Illusion」のように、何と翻訳すべきか迷う。少なくとも筆者は。日本語には、useにあたる単語がいくつかあるにはあるが、「使用」「利用」、「行使」と、どれもこれもしっくりしない。この歌のこのパートの場合は何がフィットするだろうか? 言っていることは、”愛情と愛をすべて与えること”を、”俺達”がすべて、「use」できるということである。「使う」ではないだろう、ツールじゃない。「利用する」?これも違う、そんな打算的な何かではない。ということで、ここでの対訳は、「行使する」、つまり意思をもってそれをやる、というニュアンスとしたが、これもまだしっくりはしていない。自分にとってはそれが一番近かった、というだけだ。
残念ながら、ロマンスがあったのは歌詞の1番だけ。2番では冒頭から破局が訪れる。どうやらヴァイキーは、幼馴染(または長年の付き合い)のガールフレンドとはうまくいかなかったらしい。「そうするであろうと思った時に別れの電話が来た」。切ない。過去に異性とお付き合いしたことのある人ならばきっとある程度は共感出来るであろう、うまくいかなかった時のオチである。その次の歌詞も、フラレる側あるあるの、”失われる自信”である。うまく付き合えている間は、パンテラの「A New Level」よろしく、”A new level of confidence and POWER!!”とフィル・アンセルモばりにシャウトすらしそうなほどエナジーに満ちあふれているが、破局が現実に浮かび上がってきた途端、スコーピオンズの「Yellow Raven」並の哀愁漂う背中を見せる羽目になる。わかる、わかるぞヴァイキー。”I swallowed hard”の一文に彼の苦しみが克明に表現されている。しかし彼も初な男ではない。そういった時の感情を既に知っている。それが「不安」。うまくいっていて満ち足りていたはずの日々が急に色褪せて、自身のやることなすことに不安を覚えだす。なけなしのConfidenceが崩れ去ってしまうほどに。
相手がもう駄目と言っている時点で、答えは出てしまっている。これが10代の青春漫画であれば、「どうして?!納得出来ない!諦められねぇよ!」と青臭さ全開でシャウトしてしまうかも知れないが、この歌がリリースされた頃既に、この歌詞を書いたヴァイキー氏(1962年生まれ)は良いお年である。それがどういうことを意味するか、身に沁みて分かっていたのだろう。ゆえに、”It's sad but done”、”No way to disagree”と、諦観の言葉でオチを語っているのだろう。追い詰められた四十路男の哀愁である。時の流れは本当に残酷で、あれほど美しかったあの子も、勢いだけはあった自分自身も、良くも悪くも大人にしてしまう。それぞれが違う暮らしに定着し、別の人間になってしまう。このパートで「時」が話題になるのはもちろん、何年も前から知り合っていた旧知の仲であったにもかかわらず、結局分かりあえず、ゴールすることなく別れることになった無念を指しているのだと思われる。
このパートで明かされるのは、付き合い始めてから実際は、ヴァイキーも諸手を上げてハッピーだった訳ではなかった、ということである。これまたあるある話ではあるが、「別れてはいない、つまり付き合ってはいるが、それがつらくて仕方がなかった」。それをヴァイキーは”More than just a test”と表現している。テスト、つまり試練であってお試しではない。最高にハッピーになるはずだったのに、すれ違いなのか、折り合えなかったのか。心底疲れてしまった。つまりヴァイキー(とその相手)にとってこの破局は明らかだったということ。それは、ヴァイキーがぼかして書いている”The circumstance”のことである。
それだけだったら単なる別れ話で終わるのだが、重要なのはその後のパートである。うまくいかない、そう頭では理解していても彼にはそれが必要だった、しかし終わってしまった。意中の相手は自分と一緒にはならない、つまりいずれ、他の誰かと一緒になるだろう。自分にはまた、落ちぶれる日々が訪れる。”Another”と書いているので過去にもあったんだね、ヴァイキー。切ないね。
ちょっと、”Got it”の表現が広範囲に便利過ぎるため、この対訳については自分のお気持ちでしかないのだけど……まぁ、このパートについては「終わりました」という悲哀と無念しか伝わってこないので、このように書いている。
長年知り合った女の子、その2人の思い出も記憶も手からこぼれ落ちていってしまった。ヴァイキーにとっていかほどに大切な相手だったかは知らない(仮に歌詞が本気だったとして)が、それは彼の心の支えでもあったのだろうと思う。
※まぁ、冒頭の電話もらう前に自分から掛けりゃ良かったんじゃない?とも思ったが。(無慈悲)
そんな訳で、無理と判断した相手はもう、ヴァイキーのLovingもAffectionも一切受け付けない。先人の名言にある通り、女性の異性に対する思いは基本、上書き保存である。次の相手がいなくても、フッた、または諦めた男のメモリーは上書き消去される。「今」に対する思いは一途でも、過去完了形の異性の記憶を別名保存で思い出としてとっておく男とはその点が違う。この歌詞からは、無理と分かっていてもそれにすがりたかった男側(恐らくはヴァイキーさん)、無理なものは無理と拒絶した女性側のやりとりを想起され、個人的にはいたたまれなくなる。自分が過去に、無理と頭では分かっていながら別れられず見限られ、しまいに拒絶された女性を思い起こしてしまうからだ。
そして最後には、もとの一人モンに戻るよ、自分の道を進むよ、とトボトボ歩き出す。
このフレーズは後半繰り返され、アウトロに繋がっていく。
せつねぇ。
フラれて嘆くなんて女々しいと笑うのは簡単だけど、歌を作った人間の年齢と境遇を思うととても、ネタにして笑い飛ばす気にはなれなかった。
このパートは、アルバムの歌詞には掲載されていないアウトロのもの。Webで調べると出てくるし、単語自体は至極単純なので聴き取ることも容易だろう。
HM/HRファンならお気づきだろうが、途中にある”I see a rainbow rising”は、バンドRainbowの名曲「Stargazer」のアウトロでロニー・ジェイムズ・ディオが歌っていたものの借用と言って良い部分である。これを思い付いたのが作詞者であるヴァイキーなのか、それとも実際に歌を入れたシンガーのアンディ・デリスなのかは不明だが、彼(ら)なりの茶目っ気なのかな。
このアウトロで何か細々したことを書くつもりはないが、中年に両足を突っ込んだ独身がパートナー(候補)を失って絶望する気持ちは、その年齢に達していないとわからないことで……それは、マイケル・ヴァイカートという、1980年代からグローバルで有名なロックバンドに主力メンバーとして在籍し続け、雑誌の表紙を飾り、海外で何百万枚もアルバムを売り、安定した高収入もあるであろう、異性にとって魅力あるはずの男性でさえ、こういう目に遭う(この歌の歌詞が本当だったらね)。銭金の問題じゃなく、打ち込むものがあれば良いという訳でもなく、9mmの歌にある通り、人は一人では生きていけないのだ。”I got nothing”、”Nothing left to spill” と、まぁその、既婚者で子供もいるアンディがそれ歌ってええんかという気はするが、何にせよ一人の男の悲哀の叫びで、この長尺な曲は幕を閉じるのである。
ここで書かれている”Long long way”はきっと、歌詞前半に出てきたガールフレンドとの「長い長い道のり」ではない。一人モンが孤独に道を歩いていかなきゃいけない、その長さのほうである。かなしい。
私はこの曲が大好きで、特にギターリフがダイナミックにスウィングするサビの部分(”We have our way”、”I make my way”の箇所)がお気に入りである。後半の丁寧な演奏、終盤の、まあStargazerに似せた雰囲気のアウトロも個人的には好きだ。Helloweenらしさでいえば40点の曲かも知れないが、Helloweenの代表曲の数々を書いてきたマイケル・ヴァイカートの曲という意味では、個人的に90点くらいを献上したくなる名曲である。
以上.
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