法哲学と例示

 法哲学では一見正しく見えるような命題の反直観性を示すためにどぎつい例示や思考実験が行われることがある。ごく簡単な例を示すと、「人を殺してはいけないというのは正しい命題に見えるが、あなたは自分の子供を惨殺した猟奇的な殺人犯に死刑判決を望まないと言えるだろうか」といった具合である。

 このような例示・思考実験について、児玉聡は第一に倫理的なルール同士が衝突する倫理的ジレンマ状況を検討する上で必要であり、第二に、死刑の例でもわかるように実際に発生しうる厳しい事態で道徳的な判断を下すための準備として必要であるとしている。(児玉聡『功利主義入門』ちくま新書,第1章)実際に安藤馨などがその議論の中で提示する事例は、彼の論証の説得性に効果的に寄与しているだろう。

 しかし、このような表現は時には毒にもなり得るのではないか。例えば同性愛者のラブホテル利用に対して、ホテル側がホモフォビア的な価値観に基づく経営戦略の観点から拒否することを正当化できるかは、法哲学では十分問うに値する問題である。しかし、これについて議論を行う際に過度にホモフォビア的な用語を織り交ぜてホテル側を思考実験上で擁護する必要があるだろうか。どこまでも無私で公的な土俵が形成されることは法哲学の議論を行う上では理想かもしれないが、一方でその議論に参加しているメンバーにはもしかしたら同性愛者がいるかもしれないし、仮に同性愛者がいなかったとしても、そのような発言に深く心を傷つけられる人がいる可能性はある。

 思考実験での話とはいえ、傷ついた人と傷つけた人の間にはそれなりの対等でない関係性が発生してしまうのではないか。そうなってしまえば、以降の議論の質自体も毀損してしまうだろう。もちろん、思考実験を実りあるものにするためにはそれなりに工夫された例が必要だが、他者がいてこそ初めて議論が成立することに注意が必要である。

 また、このような例示・思考実験では過激な例を出すこと自体が目的となってしまわないようにしなければならない。多くの人の直観を突き動かすような例示に成功したときはとても気持ちがいいものである。しかし、例示・思考実験はあくまでも議論をよりわかりやすく、説得的にするための道具であり、自分のひらめきに酔いしれるためのものではない。それどころか、適切なものを用いなければかえって議論の射程を飛び越えた理解や反発を生み出してしまう。上述のホモフォビアの例で言えば、心の中でホモフォビア的な価値観を持っている人は例示に過度に影響されて、検討されている命題全体(この例ならば思想信条や経済的な自由か)への態度を変更してしまうかもしれない。逆にホモフォビアが許せないという信念を持っている人は命題全体に過剰に反発するかもしれない。これは議論のあり方として望ましくないように思う。むやみに過激な例示を行うことに快感を覚えるのは危険であるし、他人の不必要な高揚感を惹起するべきではないのだ。

 このような例示・思考実験の弊害に常に留意しながら、これからも楽しく法哲学をしていきたいと思う。

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