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聖母の被昇天

被昇天

これは2013年8月に書いたブログ記事です。8月は広島・長崎の日と聖母被昇天の大祝日がありますね。心に回らさなければならないものが多くある月と言ってもいいかもしれません。いつでも、どんな時でも、誠実でありたいですね。(以下ブログ記事)

8月15日はローマ・カトリック教会聖母の被昇天の大祝日だ。

聖母の被昇天とは「無原罪の神の母、終生おとめであるマリアは、地上生活の道程を終えて、肉体においても霊魂においても天の栄光に上げられた。」という聖母マリアに関するローマ・カトリックの教義である。これは1950年に教皇ピオ12世によって定義され、信じることを義務付けられたカトリックの教義である。すなわち、これを排除するものはカトリックではないとされている。

カトリック教会は教義を新たに作りだすことはしない。すでにあり祝われてきた信仰的な伝承を教義として荘厳に宣言するのである。事実この聖母マリアの信心も6世紀にはすでに祝われていたものであり、教義としては1950年に使徒座より(エクス・カテドラ/ラテン語・使徒座から、という意味)宣言された。

1870年の第1バチカン公会議において使徒座(教皇)の不可謬について宣言された。これは、教皇の発言すべてが不可謬であるというものではなく、使徒座より荘厳に定式にそって発言された教義は不可謬であるという意味であり、教皇の言葉や行いすべてに間違いがない、という意味では決してない。この宣言は、教皇の権威を高めるものではなく、教会が守ってきた諸伝統を尊敬のうちに受け継ぎ、またそれらを守る、という意味である。実際にこの教義宣言されたカトリック教会の教義は、このエクス・カテドラと、聖母の被昇天の教義だけである。ちなみに、聖母無原罪の御宿りの教義に関してはすでに発布されたものであるので、遡及して有効という形を取っている。

エクス・カテドラはともかく、聖母被昇天という教義で注目すべき点は、この教義宣言が、聖母マリアがどのような生涯の最後を遂げたのかということを述べているのではなく、神が聖母マリアにおいてどのような業をなさったのかという点である。

使徒聖パウロはローマの信徒への手紙の中で次のように言っている。

「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ロマ8:30)

聖書の中には聖母マリアの生涯の最後についての直接的な記述はないが、神に選ばれた者に対する描写のうちに終末論的先取りの様式が示されている例がいくつもある。

最初の殉教者であるステファノは神の栄光と人の子であるイエスが神に忠実な僕を迎える姿として神である父の右にイエスが立っておられる(来るべき日には右に座しておられる)のを死ぬ瞬間に見た。また、ルカ福音では一緒に十字架につけられた者がキリストと共に今日楽園にいることを約束された。またエリヤは嵐によって天に上げられ、信仰の人エノクは死を経験しないように天に移された。(2011年8/16ブログ記事より)

聖公会-ローマ・カトリック教会国際委員会はその対話の中から様々な合意を導きだしているが、その中に次のような一文がある。

「被昇天と無原罪の御宿りの二つの定義におけるマリアについての教えは、希望と恵みの計画に関する聖書の構図において理解するならば、聖書の教えと古代の共通の諸伝統と一致すると言いうる。」(マリア――キリストにおける望みと希望78項)

そして上の合意に先立つ文書の中に「われわれは祝福されたおとめマリアを『テオトコス』、受肉した神の母と認め、マリアの祝日を守り、諸聖人の中でマリアに栄誉を帰する。」「マリアは教会を表わす預言者的な姿であるとみなしうる。」とある。(「教会における権威Ⅱ-30」)

教会が典礼を通して、また特定の信心業を通して記念するキリストの神秘は、宗教行事としてだけ祝われるものではない。キリストを信じるすべての人の行動原理である「ナザレのイエスにおいて開示された神」によりよく立ち戻るため、また、立ち続けるために祝われるものであり、特に秘跡/聖奠はそれらを可能にする有効な「しるし」である。

先にも述べたが、マリアがどのような状態で胎にやどり、どのような生涯の終焉をむかえたかが重要なのではない。キリストの恵みの終末的な先取りという恵みという観点から、神がマリアの生涯においてどのような業をなさったのかをよくよく見ることが大事である。というのは、キリストを信じるわたしたち一人一人において、神が何をなさりたいのか、またどのような業をなさってくださるのかを、よくよく知るということだからである。

また、人の死に方にその人の生き方が必ずしも直結するとは言えない。どんなに立派に生きていても非業の死を遂げる方もいる。だが、大切なのはどんな死に方をしたかではなく、その人の人生という誰も変わることのできない、かけがえのない一回限りの命において、神がどのような業をなさったのかということに注目することなのではないだろうか。

そう考えるのならば、なおさら、聖母がどのような生涯の終え方をしたのかではなく、神が聖母マリアの生涯においてどのような業をなさったのかということに深い意義がある。

聖公会の中にはカトリックの伝統を豊かに受け継いでいる人々と、プロテスタント的な伝統に立っている人々とに大別できるが(実際にはそんなに単純ではないが)、典礼や聖奠の執行において「誰でもすることができる(all may)、ある人はしなければならない(some should)、しかしだれも強制されてはならない(none must)」という原則がある。カトリックにはこのような理解はないが、その教義の定義に幅はなくとも理解の幅はかなりある。そのどちらがよいかという話ではなく、秘跡/聖奠や典礼において教会で記念される出来事は、わたしたちの人生のなかの一つ一つの出来事でもあるということを忘れずにいたい。

というのも、鮮明な祈りの体験はわたしたちが日毎祝い与る典礼の意味をクリアにし、その典礼でわたしたちがイエスと出会い続けることを可能にする。すなわち、どのように、また、何を祈るのかということは、イエスと出会い、イエスと出会い続けるということに関して実に大きな意味を持つのである。逆にひも解くならば、イエスとの出会いはわたしたちにどんな意味を与えるのか、また、わたしたちの毎日の生活の様々な要素は決してイエスに無関係であってはいけないということ、すなわち、わたしたちの一日の一瞬一瞬がイエスとの出会いであり、それら様々な要素が祈りを可能にする現実である。

「アヴェ・マリア」という聖書の言葉を引用した祈りがある。わたしたちがマリアに祈る時、マリアはその祈りを受け入れるように天高いところにいるのではないように思う。わたしたちが祈らずにはいられない毎日を過ごしているその最中で「アヴェ・マリア!」と叫ぶ時、聖母はすぐ側にいて共にイエスに祈ってくださる。さらに言ってしまえば、その瞬間、すでにイエスは共にいてくださる。わたしたちの傍らに、そして心の内奥に。

以前このブログで僕は聖母被昇天の記事の折にこのように書いている。

「僕は、様々な教会が様々な伝統と異なる教義を保持していくことに問題はないと思う。大事なのはお互いの違いを認め合い、歩み寄れるところは歩みより、祈りと導きの結果変えられないものは大切にし、それでもさらに共に歩むことである。一つになるということは、みな同じになるのではなく、違いを認め合いそれでも共にいるという決意と実行の積み重ねである。もちろん難しいことだが、その苦難よりは、そこに向かって歩みださないことの功罪のほうが大きいだろう。それはエキュメニカルに関するものだけではない。わたしたちの生きるこの社会、家庭、世界のただ中でもまったく同じではないだろうか。多様性の一致とは、決して同化ではない。そこにいる一番立場の弱い、辛い思いをしている人に思いを馳せ、何を変え、何を守るかをその視座で考え、決心し、実行することがもっとも大切なことなのではないだろうか。神のマリアの選びとマリアの応えは、わたしたちを多様性の一致へと導いてくれるように僕は思う。」(2011年8/16ブログ記事より)

多様性の一致というのは、教会の伝統や典礼だけに関するものではない。わたしたちの生きるこの社会のなかで、さまざまな命を生きている人々がいる。大切なのは権力を有するものや富に欠くことのない人とどう生きるかではない。上に書いたとおり「そこにいる一番立場の弱い、辛い思いをしている人に思いを馳せ、何を変え、何を守るかをその視座で考え、決心し、実行することがもっとも大切なことなのではないだろうか」と思うのだ。

聖母被昇天の大祝日である8月15日は日本のキリスト信者にとって縁深い日でもある。戦争に負けた日、聖フランシスコ・ザビエルによって初めて日本にキリスト教がもたらされた日でもある。聖母無原罪の御宿りを記念するミサが捧げれている12月8日に真珠湾攻撃が行われ第二次世界大戦は拡大してゆき、全世界が主のご変容の祭日を祝ってミサを捧げている8月6日に広島に初めての原爆が投下された。

時代はイエスの生き方と真逆を選び続けてきたように思う。だが、その中にあっても「そうではない」ことを証ししてきた人々も存在し続けてきた。人一人の生き方はさほど大きな影響力にはならない。だが、その大きい小さいではない命をわたしたちは生きていることを忘れずにいたい。

「恵まれた方」と呼ばれたマリアの人生を神は善しとされ、その喜びも苦しみもすべて刻み込まれた肉体も、喜びも苦しみもすべておさめてきた魂も、その両方を天の栄光に上げられた。キリストの十字架と復活に結ばれたわたしたちも聖母と同じように神御自らがわたしたちの手と魂を取ってくださる。

僕は神の国のことを、神の愛が支配する空間、とよく呼んでいる。強引な力によって作られるものでも、死んだ後に行くところでもない、今、ここに、始まっている国だ、と。

先日友人と飲んでいた時「神の愛が支配する国はどこにあって、いつ完成するんだろうね」とぼそっと言っていた。どういう意図からかはわからない。そしてそれがいつ完成するのかもわからない。

海の水をスプーンで一さじ一さじ移し替えるのはおろかなことに見えるが、そのはじめの一さじがなければ移し替えることすらできない。

しんどい思いをしている人の隣で「しんどいね、しんどかったね」と言うことはその人のしんどさの原因の大きな解決策にはならないかもしれない。だが、その小さな「しんどいね、しんどかったね」という一見なんの役にも立たない「共感・共苦」に意味を見出し、実際にそうしていくことが、キリスト信者にとって大事なことのように思う。イエスが弱く苦しい人に手当てをして心を震わせたのとまったく同じようにはできないとしても、わたしたちが傍らに立つとき、そして手をあてる時、イエスが働いて下さると信じて。イエスが共に働いて下さるというのなら、その小さな在り方がすべてと言ってしまっても乱暴ではないように、僕は思う。

到底信頼できないようなことにすら信頼を置きつづけた聖母のように、わたしたちも信頼することへと招かれているのではないだろうか。

その小さな生き方の積み重ね一つ一つに、どのように神が働いて下さるのか、それはわからない。だが、信頼して信頼し続けて、委ねていくその先にあるものが、きっと聖母の被昇天に表わされていることなのではないだろうか、と思う。

イエスのみ足跡に従い歩んでいく恵みをご聖体の養いと聖母の取り次ぎによって願いたい。

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