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「どうせ僕なんて」なんて思わなくていい。

2012年5月のブログ記事です。

年間第6主日Bから引き続きマルコの1章の後半が読まれる。

漁師たちの召し出しから、奇跡物語がこれでもかこれでもかと朗読されている。大事なのは奇跡そのものではなく、奇跡の背景にある出来事、神の意志、その徴をどう受け止めるかである。

また、マルコ福音はイエスの誕生物語もなく、ヨルダン川での洗礼、神の国の到来の宣告と悔い改め福音を信ぜよとの出来事に基づいた勧告に始まり、受難へと展開されていく。救い主であり、福音そのものであるイエスは奇跡を起こし栄光のうちに崇められるためでなく、苦しみ悩み関係性に問題を抱える底辺の人々と共に生き、受難のうちに人々の痛みのゆえに自らを死に引き渡すために来られた。

病人の回復やパンの増加などの奇跡にばかり目が行って、受難の意味を知ろうとしないことのないように、奇跡に目を向けず、その先の受難に結び付けるため「誰にも言わないように」との沈黙命令を下す。重い皮膚病が癒えたこの人が祭司に体を見せるようにイエス自身が言っているので、沈黙命令と齟齬をきたす。どの道話さなければならないのだから。祭司に見せる前に人に言うな、という意味だとしても、この箇所の沈黙命令は弟子たちのメシア告白の後に下された沈黙命令と結び付けて考えることもできる。それはマルコが奇跡やメシアと告白するという熱狂に受難がかすまないように意図的に編集しているとも考えられる。

ここの箇所ほど、教会が守って来た「偉大な」イエス像に合わせて翻訳されているところはないように思う。

41節の「深く憐れんで」と訳された言葉は、ギリシャ語で「スプランクニツォマイ」という。「はらわた」の派生語で、「はらわたがよじれる思い」とか「深く共感し」という意味である。

ちなみにここの箇所は写本によって「怒って」と書かれているものもある。

聖書学的には、解釈しにくい言葉の方がより原典に近いとされているそうで、いろんな註解書や構造分析の本などで、どちらかの立場で釈義が展開されている。

何れにせよ、高いところから注ぎ込むような「憐れみ」でないことは確かである。

イエスは何に「深く共感(共苦)し」、もしくは何に「怒った」のだろうか。

この「重い皮膚病」は昔は「らい病」と訳されていたが、厳密にはハンセン病のことではないので新共同訳から「重い皮膚病」と訳しなおされた。だが、聖書の時代も昨今も変わることのない特定の病を得た人々への容赦ない差別を表現するには「らい病」の方が表現のニュアンスは近いのかもしれない。難しい問題だ。

イエスはこの重い皮膚病を患っている人が打ち捨てられているその状況に、誰からも必要とされず、孤独の内に、「わたしは汚れた者です。汚れた者です。」(レビ13章45-46節)と言わなければならないその屈辱と絶望にはらわたがよじれる思いをされたのではないだろうか。

またイエスは、病、すなわち神と人間、人間と人間の関係性を決定的に分断させる悪霊の力に対し怒っている。この病そのものに怒っている。この人を見捨て、関わりを持とうとしない人々に対し根底から怒っているのではないだろうか。

どちらにしても、この重い皮膚病を患っている人が、後光でも射している神の聖者の前に跪いて憐れみを乞い、その神の聖者が厳粛に癒しを与える物語では決してない。にもかかわらず、いかにも「厳粛に」「格調高く」翻訳されている。僕はこれではイエスの姿が伝わらないように思う。いや、従来の「栄光のキリスト」を伝えるのならこの翻訳はすばらしい。

でも、本当にそうだろうか?

41節の単語が「はらわたする(深く共感する)」か「怒って」では少しずつ解釈がかわってくるのだが、イエス自身この病気を癒せると思っても癒すつもりもない、いや、癒せる力が自分にあるなんて思ってはいない。イエスがするのは、とにかくその人とその病のゆえの苦しみになみなみならぬ思いを抱いて、その人を抱きしめるのだ。深く憐れんで、手を差し伸べてと書けばとても威厳ある態度だが、そうではない。その人への思いのゆえに、誰も触れない、みんな逃げていく、その悲しみと辛さと苦しみを抱えたその人をハグするのだ。

そして言う。「清くなりますように」と。共に願いを込めて。イエスのできる最大のこと、思いを寄せてじっと一緒に寄り添うという具体的な行動と共に。

厳しく注意してと訳された「エンブリマオマイ」は、「語気を荒げて」とか「(馬のように)鼻を鳴らして」という意味の言葉だ。自分がその人を癒せるなんて思っていないけれど、誰もしない最もその人に必要な心を寄せ、共に立ち、抱きしめるという行いと共にありったけの願いを込めて「きよくなりますように」と言った時、本当にその病がなおってしまった。そのことにイエス自身仰天しているのなら、「語気を荒げ」たり「鼻を鳴らして」もまったくおかしくない。厳しく注意してという言葉では、イエスの思いや、イエスが共にいてくださることが、ぼやけてしまうように僕は思う。

イエスの看病や関わりによる病気治癒の物語について、ドミニコ会のアルバート・ノーラン神父様は次のように言っている。

「イエスのいやしの活動が成功したことは、宿命論に対する信仰と希望の勝利として見られねばならない。病気を自分の定めとして諦めていた病人が、自分たちは治ることができるし、そうなると信じるよう勇気づけられたのだ。イエス自身の信仰、そのゆるぎない確信が病人のうちにこの信仰を呼び覚ました。信仰は、人々がイエスとの接触をとおして彼から獲得したある態度であった」(『キリスト教以前のイエス』篠崎榮訳。新世社)。

イエスとの出会いが、その人の内に信仰を呼び起こし希望を得ることができる。そう考えるなら、イエスの「あなたの信仰(信頼して歩みを起こすこと)があなたを救ったのだ」と言う言葉が実にしっくりくる。イエスが共に歩み、腕を伸ばしてハグしてくれるその時、鏡のようにイエスの信仰が自分自身の信仰を呼び覚ましてくれる。希望していいんだ、あきらめなくてもいいんだ、と思えるように自分が変わっていくことにより、そこから立ち上がっていける。宿命論に立ち向かうことができる。

「どうせ僕なんて」なんて決して思わなくてもいい。僕も、あなたも。
希望していいんだ。
望んでいけるんだ。
そう、イエスが優しく語りかけてくれるから。
イエスが気付かせてくれたように、僕も一緒にいるから。

二つの足跡のように、つねに傍から離れずに共に歩み、共にいてくださるのだから。
だから、僕も歩んで行けばいいんだ。歩んでいっていいんだ。
あきらめなくても、いいんだ。

イエスが教えてくれた信仰と希望の光を、毎日の生活の関わりのただ中で輝かせていくことができますように。


マルコ1・40-45 (年間第6主日B)
40 [そのとき、] 重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。41イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、42たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。43イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、44言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」45しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

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