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「キリストは、けっして強要なさらない」(引用とコメント)

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 キリストに従ってゆこう、振り返らずに歩んでゆこうとあなたは望みます。そこで、あなたは勇気を出し、福音のうちにあなたなの信頼を置こうとするでしょうか。それも一回限りでなく、絶えることなく何回も。

 けっしてご自分を押しつけることなく、あなたの横で静かに共に歩く方。この方に招かれながら、あなたは新しく歩み出そうとするでしょうか。復活なさったキリストはあなたの内に現存し、あなたの道の先を歩いてくださるのです。

  あなたは、キリストに自分をゆだね、自分のうつろな存在のただ中に新鮮さの源をいただくのでしょうか。それとも、困惑して恥じ入り、「キリストに愛される価値などわたしにはない」とさえ言うのでしょうか。

 神のすばらしさは、その現存のありようが実に謙虚だということです。神はけっして押し付けません。人間の尊厳をけっして傷つけません。服従を強要することもありません。どんな絶対主義的な態度も神にはふさわしくありません。神が罰を下すために来られるという考えは、信仰の最大の妨げの一つなのです。

 キリストは「心貧しく打ち砕かれた者」、無理強いすることはけっしてありません。

 もしキリストが、ご自身を押しつける方だとしたら、だれがあえて彼に従うようにとあなたを招くのでしょう。

 あなたの心の静けさの中に、彼はささやくのです。「恐れることはない。わたしはここにいる」

 理解されてもされなくても、復活なさったキリストは、すべての人のすぐ近くに留まっておられます。ご自分に気づかない人の近くにさえも留まっておられます。神秘のうちに、そこにおられるのです。

 人の心のうちに炎が燃えています。暗闇の中の光、あなたのことが唯一の関心事かのように、神はあなたを愛しておられます。神はご自分の命をあなたのために捧げたのです。これこそが神の神秘。

 キリストに一つに結ばれるとき、観想と葛藤が同一の源から来ることをあなたは知ります。観想のうちに祈ること、それは愛のためです。虐待されている人々の人間性の回復のために葛藤すること、それもまた愛のためです。

 神のあまりのまぶしさに、わたしたちは盲目にされたかのようです。しかし、キリストはこの燃える炎の中に道を開き、それによってわたしたちの目は、くらむことなく、神が輝き現れるのを見るのです。

 確信があなたの目にまだ隠されているように感じても、気を落とすことはありません。核心へのそのようなあこがれを通してのみ、あなたは復活なさった方に向かってさらに進んでゆこうとするのですから。

 すべての理解をはるかに超えた愛のさらなる深さと広さとを、あなたは日々感じていくのです。このようにして、あなたは自分の人生の終わりまで驚きを毎日受け取り、新しい始まりに必要な勇気を引き寄せていくのです。

ブラザー・ロジェ著・植松功訳「テゼの源泉−これより大きな愛はない」ドン・ボスコ社 1996年 pp15-19


ちょっとだけコメント 

テゼ共同体はプロテスタント・カトリック・正教からなるエキュメニカルな観想修道会だ。ロジェは1949年に修道誓願を宣立し、2005年に晩の祈りの最中、精神疾患を抱えた女性に刺されて帰天するまでテゼ共同体の院長をつとめた。

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ロジェの葬儀に於いて、二代目総長のブラザー・アイロスにより次のような祈りが捧げられた。

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善なる神、わたしたちは、病いによって、ブラザーロジェの人生に終止符を打った女性をあなたの赦しにゆだねます。十字架のキリストとともに、わたしたちは祈ります:父よ、彼女をお赦しください。彼女は何をしているのか知らないのです。(ブラザー・アイロス)

この「キリストは、けっして強要なさらない」という黙想はロジェの黙想集とテゼ共同体への入会の儀式(誓願式)の翻訳からなる「テゼの源泉−これよりも大きな愛はない」という本に収録されている。

復活のキリストの「臨在」ではなく「現存」に言及しているところに、実にカトリック的なキリスト理解が垣間見えるのに、全体的にはエキュメニカルに開かれたよくできた黙想だと言える。

「神のすばらしさは、その現存のありようが実に謙虚だということです。神はけっして押し付けません。」との言葉は明らかに御聖体理解そのものであるが、彼は教派の違うキリスト者同士が共に集い祈ることにテゼ共同体の第一義的意味を見出していたので、完全なカトリック的理解と聖体理解を持っていたのにも関わらず改革派教会に留まった(改宗が禁じられているわけではないが、入会前に立場をはっきりさせるよう促されるとのことだ)。カトリックへの深い理解と表現と信仰の傾倒、同時にポリシーのために改宗しない姿は、凛としているが、政治的策略と言えるだろう(その良し悪しはおいておいて)。

聖ヨハネ・パウロ2世教皇様の葬儀の拝領行列に並んだロジェに対し、主司式であったヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(現ベネディクト16世)が聖体を授け物議を呼んだ。地理的事情を抱えた一部の東方教会の信者以外、カトリックでは司教の許可なしのオープン・コミュニオンが許されていないからである。バチカンのスポークスマンであるナヴァロ・ヴァルスは、これは誤ってロジェが拝領行列に並んでしまったためにおきた「事故」であったと発表した。だが同時に、原則的にカトリック信者以外の聖体拝領は教会法上許されないが、聖体拝領の重要な条件として聖体理解(実態変化)が求められことと、また地区司教の采配によることも述べ、ロジェがカトリックの聖体理解(実体変化)を完全に共有していることをも述べている。

キリストが強要しないぶん、わたしたちは自分の手で自分の心でキリストからのプレゼントを受け止めるよう望むことが時に必要だ。僕はテゼの絶対的な支援者であり、霊的賜物を多くもらったが、ロジェの信仰に関わらず「政治的なエキュメニカルの姿勢」にはあまり感心しない。キリストの愛に満たされるため、なりふり構わず主についていくことだってあるではないか、と思うからだ。キリスト信者の扶けである聖母マリアが、常におん子イエズス様へと導き、わたしたちの必要に気づき、常に取りなしてくださいますように。

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