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この夜

カトリック教会では四旬節のあと、復活の主日の前三日間を「過越の聖なる三日間」として祝う。神様がどのように人類の中に介入され、ご自身の救いの業をイエズス・キリストにおいて行われたかを思い起こし、追体験し、現在化する三日間であり、カトリック教会の典礼の根拠となる出来事を記念する聖なる三日間である。

聖金曜日の十字架礼拝の時に、とがめの交唱や十字架賛歌が歌われる。教会で歌われる歌は、ミサにおける司祭の祈りがほとんどであるが、聖歌隊や信徒による応唱の他、入祭唱や拝領唱、答唱詩編や一般の賛歌も、全て人間から神様への賛美と礼拝の歌だ。もちろんキリストの聖体や聖心を讃える歌や、聖母マリアをはじめとする諸聖人たちを称え祈りを依頼する歌もある。

聖金曜日のとがめの交唱は、神様が人間に問いかけるという珍しい形だ。神様はこの日、キリスト信者一人一人に問いかける。

「民よ、わたしに答えよ、
わたしはあなたに何をしたか
何をもってあなたを悲しませたか?
わたしはエジプトの地から
あなたを導き出したのに、あなたは救い主に十字架を負わせた。」

わたしたちは頭では知っている。キリストの自己譲渡により、憎しみと暴力が十字架の木において神との、人々との、わたし自身との、赦しと和解に変えられることを。たとえイエズス様を銀貨(欲望や野望・失望や憎しみ)で引き渡したとしても、イエズス様はそのわたしを「善き牧者」となって抱えてくださることも。それなのに、わたしたちはご自身を引き渡されたイエズス様の視座に立ちきることのできない弱い存在である。

その弱く、ある意味、醜い自分たちが、聖金曜日の神の問いかけに対する精一杯の応え(答え)が復活徹夜祭の冒頭に歌われる「復活賛歌」だ。

神の使いよ天に集い、声高らかに喜び歌え。
偉大な王の勝利を祝って角笛を吹きならし、救いの業をほめたたえよ。

まばゆい光をあびた大地よ、喜びおどれ。
永遠の王の輝きは地を照らし、世界を覆う闇は消えうせた。

母なる教会よ、救いの光をあびて喜び歌え。
この神の家も、人々の賛美をこだませよ。

主はみなさんとともに
またあなたとともに
心をこめて
神をあおぎ
賛美と感謝を捧げましょう
それは尊い大切なつとめ(です)

目に見えない神、全能の父と、神のひとり子、主イエス・キリストを、
心を尽くし、声を限りにたたえることは、まことにとうとい大切な務め。

キリストはわたしたちのために血を流して、
永遠の父に、アダムの罪の負債を返し、その重荷を解いてくださった。

きょうこそ、まことの過越の祝い、神の小羊がほふられ、
信じるものはその血によって神の民となる。

この夜、神はイスラエルの民をエジプトから救い出し、無事に紅海を渡らせてくださった。

この夜、神は火の柱の輝きによって、罪のやみを打ちはらわれた。

この夜、キリストを信じる全世界の人々は、罪のくらやみから解放されて、
救いの恵みを受け、聖霊の交わりに加えられる。

この夜、キリストは死のかせを打ち砕き、勝利の王として、死の国から立ち上がられた。

いつくしみ深い父よ、あなたの愛は限りなく、奴隷の民を救うために、ひとり子を渡された。

アダムの罪、キリストの死によってあがなわれた罪。

栄光の救い主をもたらしたこの神秘よ。

この聖なる夜、悪は打ちはらわれ、罪は清められ、恵みが注がれて、喜びが満ちあふれる。

聖なる父よ、天と地、神と人とが結ばれたこのとうとい夜、
あなたの教会が奉仕者の手を通してささげるこのろうそくを、賛美のいけにえとしてお受けください。

このろうそくが絶えず輝き、夜の暗闇が打ちはらわれますように。

その光は、星空にとどき、沈むことを知らぬ明けの星、キリストとひとつに結ばれますように。

キリストは、死者のうちから復活し、人類を照らす光。
世々に至るまで。アーメン

何度も何度も繰り返される「この夜」とともに、神様がわたしたちに何をしてくださったかを歌い上げる。「民よわたしに答えよ、わたしはあなたに何をしたか?」という神様の嘆きの問いにその日には答えることの出来なかったわたしたちは、イエズス・キリストの十字架のゆえに答えることができるようになった。

すなわち、「この夜、神様はイスラエルの民をエジプトから救い出し、無事に紅海を渡らせてくだり、この夜、神様は火の柱の輝きによって、罪のやみを打ちはらわれ、この夜、キリストを信じる全世界の人々は、罪の暗闇から解放されて、救いの恵みを受け、聖霊の交わりに加えられ、この夜、キリストは死のかせを打ち砕き、勝利の王として、死の国から立ち上がられた」と、「わたしに答えよ」と問いかける神様に向かって、声のかぎりに答えることができる。キリストの十字架の苦しみと死を過越した復活の命に結ばれた喜びを、心から歌い上げることができるのだ。

復活徹夜祭の聖堂は真っ暗闇だ。美しい祭壇も、十字架の道行きも、座り慣れたバンコすらおぼつかないほどの闇。いつもは美しい色合いを見せてくれるステンドグラスや色ガラスも闇の中。その闇は、この世の闇であり、神なき世界の闇であり、わたしたちが留まってしまうわたしたち自身の内面の生活の只中の闇である。そこへ今年の年号とアルファとオメガが記された復活の大ローソクの形でともしびを携えた復活のキリストが入ってきてくださる。はじめであり終わりである唯一の御方が入ってきてくださる。

カトリック教会は光を指し示すだけでなく、ある意味、闇の価値を教えている。闇はわたしたちに何をなすのか、そして、わたしたちは闇の中では善をなすことはできず、わたしたちが闇に留まることと決別しないかぎり、留まり続けてしまうということを。

人間は闇を抱え、闇に留まってしまうのが当たり前の存在と言ってもいいと思う。なぜなら、世の中のほつれ目や、問題の絡まった結び目や、壊れた社会を体感する場所はすべて闇であり、闇と表裏一体の人工的な光に晒され続けている存在だからだ。「あれをしろ」「これをできるようになれ」「あれを手に入れろ」「そのゆえに歓心を得よ」という、消費に向かってぶっ壊れた世の中が指し示す闇と表裏一体の人工的な光を、まことの光だと勘違いしてしまう。間違ってしまう。

今年、この夜、わたしたちは、わたしの闇の中に決して絶えることのないキリストの光(Lumen Christi)を迎え入れた。復活の大ローソクのようなほろほろと燃えたぎるともしびから分け与えて頂いたわたしたちひとりひとりの光は、ひと吹きで吹き消される小さなものだが、このともしびこそが、わたしを闇に留めおくことなく、光の方へと歩ませるのだ。

このともしびを分け与えられた者が寄り合っうことにより、その光は涙を流している人を探し出すかもしれない。しんどい思いをしている人を探し出す光となるかもしれない。その人をあたためるための最初の温もりとなるかもしれない。寄り添うにはあまりにもか弱いともしびだが、その光はしんどい思いをしている人の向こう側に「民よわたしに答えよ」と問うている神様を照らし出し、わたしたちはその姿を見出すのではないだろうか。

わたしたちは聖金曜日のわたしたちのままであってはならない。このぶっ壊れた世の中の至る所に、復活のイエズス・キリストがおられる。低められ、しんどくされ、小さくされて苦しい思いをしている人と共に神はおられ、そこでわたしたちに問いかけ続けておられるのではないか。

そこで、イエズス様から頂いた火を分かち合うことにより、神の問いかけに答えた時、実はイエズス様から頂いた火を復活のイエズス様へとお返しすることへの気づき、復活したイエズスさまへとわたしたちを導くかけがえのない体験となるのではないだろうか。

イエズス様に信頼しましょう。
暴力と搾取、別離の悲しみと嘆きが、そのままで終わることは決してない。カナの婚礼の席で悲しみを喜びに(水を上等なぶどう酒に)変えてくださったイエズス様に信頼し、歩みを起こす時、復活のイエズス・キリストとともにすべての暴力、搾取、差別、悲しみ、怒り、嘆きに終止符を打つ。「あの人の言うとおりにしてください」とキリストへの信頼に招く聖母マリアの扶けにより、さらにわたしたちはそれを可能にするのではないか。

2024年の御復活祭。どうか、わたしたちが闇に留まることなく、内なる光であるイエズス・キリストに信頼し、この世にあって眼に見える光のもとへと導かれますように。神に感謝。アレルヤ!


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