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命のパン

2012年6月のブログ記事に加筆したものです。

次の主日、聖公会もカトリック教会も同じくヨハネ福音6章24~35節が朗読される。

ちなみにどちらの教会も福音朗読はディアコノス(執事・助祭)以上の聖職者が朗読する。それは、朗読そのものをサクラメント的に表現する典礼行為だからである。この二つの教会は、エピスコポス(主教・司教)、プレスビュテロス(司祭)、ディアコノス(執事・助祭)の三つの位階・職制を守ってきた。使徒継承の問題や叙任権、また典礼の有効性といった両教派の問題はあるが、その教会に属し信じる者にとっては、その群れが執り行う典礼に於いて、典礼という行為が表わそうとするその典礼行為の本質的意味を揺るがすことはあり得ない。なぜなら、ローマの首位権を主張するカトリック教会は、聖職者がそれを認める場合、どのような典礼も包括してきた。問題は典礼ではなく、ローマの首位権に従うか否かである。それは従わない教会が問題なのでなく、従わせようとする側の問題である。聖公会の使徒継承の有効性はカトリック教会により主教按手の叙任権ではなく、典礼の形相に問題があるとして否定された。裏を返すと、ローマの首位権を受け入れないから無効だと言っているわけなのだが、その教会で信仰生活を悩みの日にも、喜びの日にも単純素朴に送る者にとってはあまり関係がないように思う。信じているのだから。

サクラメントの有効無効はさておき、福音朗読の前に典礼を司る者(聖職者)と共に典礼に積極的参加する会衆との間で一定の応唱がなされる。それは次のような言葉である。

朗読者「主はみなさんとともに」
 会衆「また
司祭あなた)とともに」

この言葉はラテン語の「Dominus Vobiscum」「Et spiritu tuo」翻訳であるが、この言葉はただ「主が共にいますように」といった願いを述べているのではなく、今、ここに、福音が読まれるこのただ中に、福音を語る者のうちに、聴く者のうちに「主イエスがここに現存されているのだ」という確認である。だから、ミサの中で福音が読まれるのは、ただ聖書が朗読されるのではなく、福音朗読という典礼そのものにイエスがおられるということを表わしている。

他の聖書朗読は座って聞くに対し、福音朗読は全員が立って聴き(フランシスコ会の伝統のある小教区では朗読台の方を向く)、荘厳に朗読される場合はロウソクを捧持した奉仕者が左右に立ち、福音書に献香される。これは見た目には荘厳で儀式的だが、その本質的な意味においては、福音朗読は非常に重要で、かつ尊敬を伴う行為なのだということを表わすものだ。キリストがここに現存しているのだから。そして額と口と胸に小さく十字のしるしをし、語られる福音を理解し、語り、悟る恵みを願い、頭と口と心から取り去られないように願うのである。

典礼の捉え方、すなわち目で見たことを見たままに受け取るのではなく、見えているものの本質を感じ取るというセンスは今日の福音を読むのに重要な意味を持つ。

5000人の給食が行われ、マタイ福音では弟子の派遣(強いて舟に乗せ)と湖の上をイエスが歩くという出来事の後、今日の福音が読まれる。すなわち、教会は5000人の給食の出来事とご聖体を結び付けて捉えるように教えている。また、最後の晩餐の原型とも言える5000人がパンによって完全に満たされる出来事も、最後の晩餐も、現在のミサも、イエスがそこに共にいるということが非常に重要かつ本質的なキーワードとなる。

というのも、「命のパンである」というイエスの言葉と、5000人の給食、その二つの出来事と言葉をつなぐのは他でもなく「恐れることをやめなさい。わたしはここにいる」というイエスの言葉だからである。

このヨハネ福音では、群衆とイエスの対話が中心だが、その対話はあたかも尻取りのように同じ言葉で紡がれていく。そして群衆が口にする言葉と同じ言葉をイエスも使う。だが、決定的に違うのは、その言葉の意味するところが違うのだ。

それは、イエスの思いや言葉と、弟子たちの無理解や勘違いといった食い違いや温度差を対比的に描いていたマルコ福音6章45-52節と同じように、群衆の見ているものとイエスが見ているもの、群衆が求めるものとイエスが与えるものの決定的違いを描いている。

5000人の給食というしるしを見たから群衆は自ら舟に乗ってイエスの元に集まって来るが、その群衆に向かって「しるしを見たからではなく」とイエスは言われる。言葉としてははっきりした矛盾である。聖書の中でこういった矛盾が短い箇所に散見される場合、そのテキストが複数の伝承や資料をもとに多くの編集を経てその形になったと考えられる。だからこのヨハネのテキストもそのような成立経過をたどったと考えられる。ただ、この箇所の場合は、群衆の「見る」とイエスの「見る」では意味が決定的に違う。

群衆はイエスの行ったしるしの外側だけをただ見ており、そのしるしによってイエスが示したい本質的な意味を見てはいない。重要なのは後者であって、ただ見ているのは見ていないのと変わりがないのだ。そう考えると、このヨハネ福音の「見たから」「見たからでなく」の矛盾は解ける。

この福音のなかでは群衆とイエスの間で様々な食い違いがあるが、一つだけ取り上げたい。

30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」

ここで群衆は神が天から降らせたマンナを先祖が食べたことを引き合いに目に見えるしるし求める。するとイエスは次のようにお答えになる。

32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。


日本語のニュアンスでは難しい表現なのだが、あきらかにモーセの時のマンナは「与えた」という過去形、すなわち終わってしまったこと、だが、まことの天のマンナは、今、神が「与えている」イエスなのだ、とお答えになる。群衆はイエスを見てマンナ(糧)を与えよと要求するが、もうそのまことのマンナを目にしていることを悟っていない。

かつて燃える柴の中から「わたしはある。わたしはあってあるものだ。」と宣言されたインマヌエルの神の自己開示は、イエスにおいて繰り返される。「恐れることをやめなさい!わたしはともにいる!」と。

昨今、司祭不足で主日ごとにミサが捧げられない教会があることをしばしば耳にする。実に悲しいことだ。司祭不足も悲しいけれど(いや、そんなには悲しくはないけれど)、ミサというイエスの現存の場、イエスに出会う場が奪われてしまうということが悲しい。

札幌というそこそこの都市でも大教会でもなければミサが無い主日がある。他の教会にいくなり集会祭儀で補われてはいるものの、教会共同体が自治体とかサロンではなくあくまでも礼拝共同体である以上ミサが捧げられないということは致命的だと僕は思う。

わたしたちはミサがある限り、日曜ごとに朗読される福音のなかに、呼び集められる会衆と司式者の間に、そしてご聖体のうちにおられるイエスと出会うことができる。ご聖体によって結びあわされ、養われ、派遣される。

ご聖体を何かありがたいものと「見る」ことも、イエスの現存として「見る」こともできる。もちろん象徴として行っているのなら、その行為そのものに現存しているのだろう。何れにせよ、目で見たものの本質を見る恵みを願いたい。なぜならご聖体は、イエスの体というだけでなく、イエスをイエスたらしめるその御生涯すべてが凝縮されているからだ。そのご聖体がわたしたちを活かし、養い、派遣してくださる。ご聖体を受けたわたしたちはイエスの心と一つとされるように祈り求め、派遣されたところで生ききらなければならないのだ。

ご聖体を受けたものがイエスを生きなければならないのは、神の招きを受け入れた者はその招きを拒否することができないからであり、神が植えられた場所で、潔く咲かなければならない。

目に見えるものだけ見るものではなく、その出来事の本質を見る目をご聖体のキリストによって養われる恵みを、キリスト信者の扶けなる聖マリアに取り次ぎを願いたい。聖母ほど神の救済の働きと御子イエスの福音の本質を見抜いていた人はいないのだから、きっと優しく、ときに厳しく、御子のもとへと導いてくださると思うからだ。

ヨハネ6・24-35 (年間第18主日B)
 24〔五千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった〕 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
 34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

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