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ロッキータイガー物語 世界が驚愕した雑草魂

1985年11月24日。その日は雨だった。
府中の東京競馬場では第5回ジャパンカップ(G1)が行われた。
三冠馬シンボリルドルフ、天皇賞でシンボリルドルフを破ったギャロップダイナ、天皇賞でその2頭には破れたが3着を死守したウインザーノットといった日本の一線級のサラブレッドが海外のG1レースを勝ち抜いてきた外国馬9頭を含め、15頭でレースは行われた。

日本の競馬は鎖国競馬と言われ、世界の中では全く評価はされていなかった。日本中央競馬会(今のJRA)は世界に通用する強い馬を作ることを目的に、海外の強豪を招いてレースを行うことを企画した。
しかし、開国に対して反対する者は多かった。特に弱小生産牧場にとっては死活問題だからだ。

関係者の努力の結果、1981年に第1回ジャパンカップの開催にこぎつけた。
結果は、予想通り日本馬はいいところを見せることなく終わった。
第2回も同様であったが、第3回で10番人気のキョウエイプロミスがアタマ差の2着に食い込んだ。
第4回はミスターシービー、シンボリルドルフと2頭の三冠馬が出走するも、勝ったのは日本馬のカツラギエースだった。10番人気での勝利だった。

そして第5回、三冠馬のミスターシービーはいないものの同じく三冠馬のシンボリルドルフが世界の強豪を相手に強い勝ち方をすると大方は予想した。

私はその年の秋に競馬を始めた。だが、中央競馬の競馬場には行ったことがなく、近くにある大井競馬場や川崎競馬場といった地方競馬に入り浸っていた。今ではきれいになった地方競馬だが、当時はまさに鉄火場だった。

私がこのレースで勝つと予想したのは、地方競馬の船橋競馬場から選出されたロッキータイガーだった。騎手は地方競馬でリーディングジョッキーの桑島孝春。
だがこの馬に注目する者は多くなかった。事実、在京のスポーツ新聞でロッキータイガーに印をつけたのは東京中日スポーツのトラックマンただひとりでその印も白三角という軽いものだった。

後楽園の場外馬券売り場でロッキータイガーの単勝、複勝、そしてシンボリルドルフとの馬券を買った私は寒さに震えながら黄色い電車に乗った。
ちょうど代々木に着く頃にレースが始まった。ポケットラジオで中継を聞くがAM放送は電車の中では電波が入らない。一旦電車を降りてラジオに耳を傾けた。
だが、私が買ったロッキータイガーの名前はアナウンスされなかった。負けたと思った。ところが直線に入りシンボリルドルフが独走体制に入るとその2番手争いにロッキータイガーがいた。
結局、シンボリルドルフの1馬身3/4差の2着だった。私にとっては勝ちに等しい2着だった。

同じ日、東京競馬場にはアウェーのロッキータイガーと桑島孝春を孤独にしてはならないと地方競馬ファンが大勢詰めかけた。そしてこの人馬に熱い声援を贈り、レースが終わったあとには自分のことのように涙を流して喜んだという新聞記事が掲載された。その記事を読んで私は人目もはばからず号泣した。

歴史は積み重なり、今や日本のサラブレッドは世界に通用するまでになった。
そして今年は記念の第40回ジャパンカップが行われる。その出走馬には今年無敗で三冠馬になったコントレイル、同じく無敗の牝馬三冠デアリングタクト、2年前の牝馬三冠馬で今回がラストランになるアーモンドアイという100年に一度揃うか揃わないかという超豪華メンバーで行われる。
また、久しぶりに海外からウェイトゥパリスも出走する。

このレースは日本の競馬関係者、競馬ファンはもちろん関心を寄せているが、それよりも海外の競馬関係者や競馬マスコミの注目度が高い。

今年は日本競馬界はさまざまな歴史が作られた記念の年となった。一方、世間では新型の疫病により多くの人が苦難を強いられる年になった。
せめてこのジャパンカップで多くの人にがんばる力を感じてもらえればうれしい。
全馬無事にレースを完走して欲しいと願っている。



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