歴史修正主義と想像力

わたしがまだ大学生の頃、ヨーロッパ史の授業の最後にレポートを書いた。

テーマは、戦前のドイツ史に関することならなんでもよかったのだが、わたしははナチスドイツにおける歴史修正主義に関する内容を選んだ。

ドイツでもネオナチが勃興し、日本でもインターネットの発達に伴い、いわゆる「ネトウヨ」という言葉が流行ってしばらく経っていたので、これについてなんとなく興味を持ったのだと思う。

わたしは、ホロコーストにせよ南京事件にせよ、特に「虐殺」に関しては、絶対的に正確な人数をわたしたちが把握できるはずもないから、加害側と被害側で認識が異なるのは当然のことだと思う。

だから、その事実が本当に起こったのかとか、本当は何人が犠牲になったのかとか、そういうことを明らかにしたいという意図はあまりない。

むしろわたしの関心は、時代をかけ離れて今を生きる人たちが、「国籍」という繋がり(のみ)によって、「被害はそこまでではなかった」と声高に反対を主張したくなる、その心理の方にあると言っていいだろう。

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ドイツに限らず、フランスでもオーストリアでも(他にもいくつかの国で)、ナチスドイツの犯罪行為を否定、あるいは矮小化することは、その行為に対して刑事罰が科される。

これは逆に言うと、そうでもしないと人間の記憶というのは、いずれ簡単に塗り替えられるということを意味するのだと思う。

今の世界のトップを担う人たちの顔ぶれを見ても、だんだんと右傾化していることは見て取れる。

もしかすると国民国家においてはそれが人間の本性なのだとしたら、右翼的な思想を持つ人をただ否定するのも、一旦立ち止まって考えるべきなのではと思った。

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今はインターネットの発達で国境が曖昧になり、いつでも比較的安価で世界に行く手段があり、いろんな文化を享受できたり、どこでも働けたりが可能になった。

そして、人が「自分らしさ」を語るとき、「好きな食べ物」や「ファッション」や「音楽」など、そこにはなんのルールもなく、無限の表現方法が存在している。

であるはずなのに、自分を規定するときに「〜〜人」という国籍に頼ってしまわざるを得ないということは、実はものすごく悲しいことなのではないだろうかと思うし、そういう人間を生み出すこのシステムは果たしていいものなのだろうか、と問いが立つ。


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