ナショナリスト思考の仮説

前回の記事で、わたしはナショナリストに対する違和感を書いた。

それをざっくり簡単に言うと、彼らはアジアにおける日本の絶対的優位性を保持したいという気持ちがあるにもかかわらず、敗戦国であるアメリカに対しては非常に従属意識が大きい、という点に矛盾を感じるというものだった。

この矛盾に対する、わたしの仮説が固まってきたのでまとめておこうと思う。

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豊臣秀吉が織田信長に使えていたころ、冬の日も信長の草履を懐に抱いて温め、気持ちよく使えるように気を利かしていたという話は有名である。

そうやって徹底的な子分を演じた末に、彼は信長に取り立てられ、見事天下を統一するに至るという流れが残っている。

このエピソードの真偽や信憑性までは分からないが、これが今でもドラマや小説での名シーンとして考えられているということは、一応自然に受け入れられているということなのだろう。

実はこれと似たようなキャリア形成の流れが、日本ではごく普通のこととして考えられていると思う。

つまり、本当に出世したいのならばまずは目上の人間に認められなければならない。

もっと言うと、最初は少々不満を感じていたとしても徹底的に従い、いずれは自分が権力の座につくのだという気持ちをバネに努力することが、立身出世には必要なのだ、と。

権力者に刃向かうことは一人前への道を遠ざける、と。

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日本は戦後、アメリカがするあらゆる軍事行為に対して、反対を表明したことは一度たりともない。

実際にそれによって、日本は無事に主権を回復できたし、沖縄の返還だって実現できたのだと思う。

ただ外交の場合、日本国内の話と大きく異なる点はどれだけ徹底的に従属していたとしても、やがて認められて一人前になるというストーリーが保障されていないという点だ。

なんなら、ずっと忠犬として扱われているし、もしかしたらこのエピソードは国際基準では全く通用しない可能性の方が高いということが分かったきたと思う。

こうなった時、また異なる形で愛国心が噴出するのではないか(アメリカとの軍事同盟をあてにせず国内で核兵器を作れるようにすべきなど)、と少し危惧している。

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