読書記録 丸山真男著「日本の思想」

Youtubeのサムネのごとく、ちょっとキャッチーなタイトルを考えていたら下書きのままの期間が長くなってしまった。内容的には不完全ではあるが公開だけしてみよう。

いつ購入したか記憶になく、読んだ記憶もなかったが、断舎利後にも本棚の新書コーナーに生き残っていた。いつか読もうと思って残していたのだろう。ここでは、個人的な記憶を保持するためと、このページをご覧頂くかもしれない読者のために、こんなことが書いてありますよという情報を残せればと思う。
前半の 1.日本の思想 2.近代日本の思想と文学は、論文調であり、中々前には読み進めない。取っ付きにくくわかりにくい文章なのである。時代が変わってしまったことに加え、私を含め日本人の読解能力は下がっているだろうから、本書は次第に読まれなくなるだろう。
ここでは、心に止まったか、あるいは腑落ちした箇所を含むページの上端を折り(いわゆるドッグイヤー)、後で端折りページを読み返し、ああ、そうだったと思い出せたことをに書き残すことにした。
後半の3.思想のあり方について 4.「である」ことと「する」こと は、講演会の口述を元にしているらしく、主張の繰り返しも多いが、それも助けとなり割とスラスラ頭に入ってくる。後半から読み始める方が良いかもしれない。

4.「である」ことと「する」ことより

権利の上にねむる者、自由とは何か

民法の「時効」について、金を借りて請求されないのをいいことにネコババをきめこむ不心得者がトクをして、善人の貸し手が損をするのは不人情に思えるけれど、この「時効」規定の根拠には権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含められる。という話が出てくる。
日本憲法第12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
この条項は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法97条の宣言とペアーになっていていて「国民は主権者であるが、それに安住して怠っていると権利も失うぞ」という含みがある。
憲法97条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありえる。ということを言っている。裏返しに読めば、そのような努力をしない国民に対しては自由は約束できない。ということになる。
さて、ここでさる有名人の損害賠償請求踏み倒しを考えてみる。損害賠償の判決後も、逃げ回り、ついには時効になったという事案がある。これを持って彼を悪人である。と決めてしまうのはラクチンではあるが、原告は、彼から損害賠償金をゲットするのに、どれくらい努力したのか? ということに関して、どこかで語られているのであろうか? と思ったりした。

1.日本の思想

国学の儒教批判、 言うなれば日本人のよくある批判の仕方とでも言えば良いか(p.24)

(i) イデオロギー一般の嫌悪あるいは侮蔑
(ii) 推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直感的解釈を絶対視する結果となる)
(iii) 手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方
(iv) 論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引き下げる批判様式
(v) 歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」=牽強付会(自分の都合のよいように無理に理屈をこじつけること)として反撥する思考
等々の様式によって、その後もきわめて強靭な思想批判の「伝統」をなしている。(iv) は国会論戦にすら登場する批判様式である。

國體(p.34)

臣民の無限責任によって支えられた「國體」とは。
「無限責任」とは、当事者(例えば犯罪者をイメージしてみる)以外の、親族、当事者を過去に教育した者、当事者が属している組織の人間等、当事者と関係のあった全員が当事者の為したことに対して責任を取るという態度であるが。國體とは、そういった無限責任に支えられる。國體は明示的に定義されず、反國體として定義される内外の敵の目前においてのみ明確な権力体として作用する。(通常は姿が見えないが、敵が現れると姿を現す) その國體が戦前の日本を支えていた思想であった。

輔弼(ほひつ)について (p.42)

輔弼(ほひつ)という大日本帝国憲法の骨子となる概念が紹介される。これは、統治の唯一の正当性の源泉である天皇の意志を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意志に具体的な内容を与えることである。この概念と上述の無限責任により、巨大な無責任への転落の可能性を内包することになった。第二次大戦が以下に進められたかをみると、まさにこれであった。

(追記)河合隼雄の「中空構造」と猪瀬直樹の指摘について

両者とも日本の精神構造、社会構造に関し、「中心は空である。」という考え方を展開している。中空構造と巨大な無責任行動は、みなリンクしているような気がしてならない。突然、河合隼雄と猪瀬直樹が出てきたのだが、両者の主張の中に、本書籍と共通するものを感じ、メモとして追加しておく。


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