『Penguin's Detour』/林田匠【AT1選note投稿祭】
あなたは今飛行機に乗っているとしましょう。今乗っている飛行機が堕ちてほしいと思いますか?
もしくは今すぐとてつもなく大きな隕石が地球に落ちてほしいなんて思ったことはありますか?
今から紹介する曲はきっとあなたの支えになると思います。
まっちゃと申します。
今回は私のAT1選である林田匠さんの「Penguin's Detour」という曲に対する思いを伝えるための文章を書きました。
自語りを含みますので苦手な方はブラウザバックをお願いします。
(※AT1選とはAll Time 1選の略です。)
1.林田匠さんについて
2017年3月13日「ハヤシダ」名義で初投稿。
初投稿「Bonam Noctem」
しばらくMVは非公開にされていましたが、今年の4月にYouTube上でMVが公開されました。こちらも大変よい曲ですので、是非聴いてみてください。
また、2022年4月10日付けでそれまでの曲のMVは公開終了となっています。
詳しくはご本人様のnoteをご覧ください。
林田匠さんは音楽だけでなく、絵や映像も制作されています。
MVやアルバムのジャケットもご自身で手がけていらっしゃいます。
X (旧Twitter)に投稿されている作品もあります。是非見てみてください。
2.Penguin's Detourについて
概要
ハヤシダさん6作目の作品です。
2020年1月25日に公開されました。
ご本人様の意思により一時期非公開になりましたが、同年11月1日に本名である「林田匠」名義で再投稿されています。
この曲で初の殿堂入り(ニコニコ動画にて10万再生)を果たしています。
2022年4月10日をもってMVは公開終了となっています。
現在はストリーミングサービスでも配信が停止され、アルバム「ひみつのうた」購入者のみが聞くことのできる曲となっています。
アルバム「ひみつのうた」については以下のご本人様の投稿の通りです。
《重要》
このnoteは現在「Penguin's Detour」を聴くことができる人が決して多くはないと理解した上で書いています。
いつかまた聴けるようになったときに「聴いてみたいな」と曲を聴くきっかけになれば大変嬉しく思います。
出会い
ボカロは小学生の頃から知っていましたが、しっかりと聴き始めたのは中学二年生の夏からでした。
ひたすらに曲を聴きたくて、ニコニコ動画で再生数が多い順に聴いたり、YouTubeのおすすめに出てきたものを時間が尽きるまで聴いたりしていました。
2020年の春、YouTubeのおすすめで「Penguin's Detour」を聴きました。そのときはいい曲だなと思って聴いていたものの、なんとなく歌詞の意味を掴むことができず、AT1選になるほどではありませんでした。
2021年の春、再投稿されて以降再びYouTubeのおすすめに出てきました。曲を聴いて衝撃を受けました。歌詞が心の深いところまで届く感覚。初めてでした。これが「全身で音楽を聴く」ということなんだ、と子どもながらに思いました。
同じ曲のはずなのにどうしてこんなにも印象が変わったのかな?と当時は思いましたが、今改めて考えてみると1年の間にあった経験が歌詞の解像度を上げてくれたのだと思います。
新型コロナウイルスによる影響でやりたいことができず、行き場のない感情ばかりが積もっていました。中学最後なのにも関わらず、大会やイベントの中止が相次ぎ、仕方ないとはわかっていても人生における大事な時間を軽んじられているような気分でした。どうしようもないことはどうしようもないんだというある種の諦観を得ました。
「Penguin's Detour」の時を経ての印象変化は、時間経過や経験の積み重ねが物事の捉え方を変えるということを実感した瞬間でした。
再投稿後初めて聴いたときの衝撃を今も忘れられず、また後にお話しする解釈が自身の人生観に影響を与えてくれて、AT1選になりました。
余談ですが、この経験をきっかけとして、過去に触れた音楽や本に定期的に触れるようになりました。
今までとは異なった解釈を得られたり、自身の考え方や感じ方の変化を実感できたりするので面白いです。
話が逸れましたが、以降は独特のシックな曲調と繊細な言語化から成る林田匠さんの曲にどっぷりとハマりました。
歌詞
歌詞全文は以下の通りです。
解釈
ご本人様から出ている情報は以下の通りです。
思わず笑ってしまった文章を抜粋させていただきます。
ドトールはまだわかるとしてもコーヒーですし、ダンスに関してはなぜそうなった……???
私は「ディトゥア」と呼んでいます。皆さんの呼び方も教えてください。
植松努さんのプレゼンを見ることも曲の解像度を上げることに繋がりました。
背中を押してもらえるプレゼンです、是非。
⚠️以下からは個人的な歌詞解釈です。
飛行機に乗るときって初めの何回かは緊張しますよね。すっかり慣れるほどに回数を重ねたフライト。今日「こそ」ということは乗る度に堕ちてほしいなと思っているのでしょう。でも当然ながら堕ちる確率は大変低いです。苦しみながらもそんなこと起きるわけないよなと諦めて、窓から雲を眺める。そんな話を何回もしてしまうような精神状態。
「あと何度しよう」という言葉からは自分への諦めや嘲笑、先への漠然とした不安などが含まれているように感じます。
「誰かを言い負かす為の機会を何かにつけ狙っていた暮らし」は人に言えるものではない、みっともなくて恥であると感じているのでしょう。もう過去にしたいのに中々過去にならず、しこりのようになって残っています。
忘れたいのに忘れられなくて苦しむ。自業自得のことであれば恨む先は自分になるから自分の首を自分で絞めてしまいもっと苦しい。
こんな自分に優しくしてくれたあの子も実は自分に対してマイナス感情を持っているんだろうなあ、と思ってしまった。最初からではなくて最近のことだけれど。
優しく「してくれた」、あの子「にまでも」、思って「しまった」と言葉の節々から感じるあの子への申し訳なさ。申し訳なさによって増幅される罪悪感。
自分のちょっとした傷に気づいたほしいために相手に近づいたけれど、かまってもらうことに物足りなさを感じたのか、それとも相手のもっと大きな傷に気づいたためか、本当は無い他の傷まで欲しくなります。
もしくはもともと傷すらないのに絆創膏を貼っていたのかもしれません。
わかりやすく言えば、不幸を盛って人に話したくなる感じでしょうか。
この歌詞の巧みさが大好きです。
洒落っ気に欠けていた生返事を嫌ってくれとまでは言えないけれど、言えない自分だけど、言えない状況だけど。
未来がなくなった絶望はもっと重いはずなのに「そうかそうか」と頷くだけ。絶望の先にある諦めに達しているように見えます。
そうやって歩いた地上でのこと。「地上」は「飛行機」からの視点の対比になっていることに加え、サビへと繋がっていきます。
ここでぐわっと曲が盛り上がります。
飛べない鳥。鳥としての大きな特徴を失っています。人間だけれど人間として大事なものを失ってしまった自分と重ねているのかもしれません。
上から何かを見下げる立場ではなく、地上にいて彷徨いながら歩く。聞こえは良くないけれど、空からは見られない眺めがある。
このことを言葉へ落とし込んで最後嘘に変わっても、確かに伝わらなくてもただそれとなく伝わるものがあればいい。
個人的な考えですが、寧ろ言葉で伝わらないことこそが大切だと思っています。この文章を書いている今もそうですが、言葉にするという行為、伝えたいことを削ぎ落して形を整えて言葉という型に当てはめる行為は、時として本来伝えたいこととかけ離れてしまうからです。
バルーンさんによる「パメラ」という楽曲の歌詞が大好きです。
また、「空からじゃ見られない眺めがある」という歌詞に関連して、卯月コウさんの言葉を載せたいと思います。
本配信を見てほしいところですが、長いため、手軽に見ることのできる切り抜きを貼っておきます。
解釈に戻ります。
ただただぼんやりと難しく考えてわかったをふりすることは、時間の無駄と指摘されるかもしれません。しかしそれさえも愛しくなれることを知ってるのか知らないのか、分かったフリばかりが上手い人を嘲たことは無いと言ったけれど。じゃあ「意味もなくケラケラと笑う」ことは嘲るという行為以外の何だと言うのでしょうか。
フリ「ばかり」というところから負の感情が感じ取れます。
黙っていれば誰かが口を開くものだから、お茶を飲みながらでも黙って座っていよう。そんな狂った時代とはおさらばします。「お先にどうぞ」と言葉を静かに発します。
強張って動けなくなってしまった。ひとり強張ったままの自分の姿が水面に歪む。それを脳裏に焼き付けていきます。
「誰も悪くないんだってね ただ一度だけ思わせるものがあればいい」
本当にその通りだと感じます。
余裕がないときや追い詰められているときには、抱えている感情を誰かのせいにしたくなりがちだと思います。その方が一方的に恨むだけでいいので、感情の種類が少なくなり、楽になれると思うからです。
それでも今の自分や状況を見て「誰も悪くない」と思えることは、ある意味強いと言えると思います。
先ほどのとおりです。基本的に誰かのせいにした方が楽になれますし、余裕がなかったり、追い詰められたりしているときほど誰かのせいにしてしまう傾向があると思います。
暗くなって張りつめていく中一人で誰のせいなのか考えます。
「あなたにわからないだろうけど」と言葉尻に言い捨てることが最大限の攻撃であり、それによってギリギリ自分の心を保っています。
そんな日々は救われません。
あるはずだったもの、しかもずっと縋っていたものさえ思い出せません。そもそももとからあったかどうかすらも思い出せません。実感がわかないまま心に穴が開いた感じかもしれません。
ラスサビ前の静けさからの盛り上がり。
この曲のタイトルを和訳すると「ペンギンの遠回り」になります。空を飛べないペンギンが必死に歩いて遠回りをする。どん底に落ちないと見られないものがある。俯瞰して見てみると、ペンギンの遠回りは決して悪いものじゃありません。このことがなんとなく伝わればいいな、というのがこの曲の作られた意味なのだと思います。
初音ミクについて
この曲の初音ミクは第三者であると感じています。誰かの苦しみと経験、そこから感じたことを俯瞰して淡々と表現する初音ミク。
第三者視点で歌ってくれるからこそ、俯瞰して情景を拾っている歌詞が頭に入ってくるのだと思います。
聴き手と初音ミクの距離は決して近くなく、遠くもなく、少し距離をとって公園のベンチや堤防に座っている感じだなあと思っています。
「ひみつのうた」の収録曲全般に言えることだと思いますが、初音ミクが合成音声として、客観的に苦しさを歌い上げる様子が大好きです。
3.最後に
私は数年の間、「嗚呼もう いつまで経っても救われない歌よ」と歌うPenguin's Detourに救われてきました。
林田匠さんはnoteで以下のように語っています。
これからもPenguin's Detourとの出会いに感謝していきたいと思います。
そして、AT1選note投稿祭を開催し、このような機会をくださったかんなぎさん、本当にありがとうございました。
約1ヶ月の大遅刻をしてしまい申し訳ありませんでした。本当にすみません!!!!!
「#AT1選note投稿祭」のついた他のnoteも是非読んでみてください。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
「ただそれとなく伝わるもの」があれば幸いです。
歌詞からの引用をもってこの文章の締めとさせていただきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?