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マイ・リトル・マーメイド

 


 あの夏。僕は一人で椿ヶ崎に行った。
 椿ヶ崎は自殺の名所で知られる崖で、街の西の外れにあるそこには街の人もほとんど近づかない。夕方には夕日で橙に染まるそこは僕にとって心休まる場所で、何か嫌なことがあれば椿ヶ崎でしばらく海を眺めるようにしていた。人の死に近い場所にいると、自分という存在を忘れることができるような気がして落ち着くのだ。
 その日も風に誘われるように僕は見晴らしのいいその崖に向かった。理由は覚えていないが、おおかた母と喧嘩したとかくだらないことだろう。その日はよく晴れていて、水面に反射した太陽が僕の目を刺したのを覚えている。
 海を眺めて十分ほど経った頃、崖の下の方から聞きなれない音が聞こえることに気がついた。波に混ざってよく聞こえないが、とぎれとぎれに聞こえる音は女性の歌声のようだ。普通なら幽霊なんかを疑ってしまうような状況だが、どうにも心が惹かれて、僕はその歌の正体が気になってしまった。
 椿ヶ崎の脇には崖の下まで降りていけるような坂道があって、そこを降りていけば海のすぐ近くまで行くことができるのだ。崖下に近づくほど歌声は鮮明に聞こえるようになっていった。聞いたことのない歌にもかかわらず魅力的に聞こえるそれは、手を引くように僕を引き寄せた。
 坂道を降りきり崖下の平らになっている場所まで来ると、ゴロゴロと転がる岩の中、ひときわ大きな岩が海辺に鎮座していた。歌声はその裏側から聞こえるようだった。僕は少し緊張を覚えながら、思い切ってそこをのぞき込んだ。そこには──

 
 ──それは、衝撃の出会いだった。

 上半身は人の形をしている。僕より少し年下くらいに見える顔立ち。透きとおるような白い肌。浜の砂を思わせるような金の髪。くりくりとした琥珀色の大きな瞳。彼女は、僕がこれまで出会った女性の誰よりも美しかった。ただ、彼女の下半身には僕の知っている人の形ではなく、深い青色のうろこをまとった、魚の尾ひれのようなものが接続されていた。彼女の姿は、まさに人魚そのものだった。
 覗き込んだ僕に気づいた彼女は、一瞬驚いたような顔をしたが、歌うのをやめなかった。むしろ、こちらの方に向き直り、僕に向けて歌うようにした。彼女の歌は僕の知らない言葉だったが、体を左右に揺らしながら楽しそうに歌う彼女を見ていれば退屈することはなかった。彼女が歌を歌い終えたとき、ぼくは思わず拍手してしまった。
「素敵な歌だね」
 さっきまでの緊張はどこにもなく、言葉はすっと出てきた。
「ありがとう」
 日本語だった。歌っているときより少し低い声。想像していたよりずっと大人びた落ち着いた声だった。
「君、名前は?」
「わたしはメイル。君の名前は?」
「僕はミナト」
「素敵な名前ね」
 これが彼女、メイルとの出会いだった。

 それから僕は、毎日のように椿ヶ崎へ通った。メイルはあのあたりの海にもう何十年も一人で住んでいるらしい。日本語は、長い間暮らすうちに街の漁師たちが話すのを聞いて覚えたという。
 僕が椿ヶ崎に行くと、メイルは決まって歌を歌っていた。出会ったときに歌っていたあの歌。僕が顔を見せると、メイルは歌を最後まで歌って、それから僕たちはいろんなことを話した。メイルは僕に海の中のことを話してくれた。メイルが今までに旅してきた珊瑚礁から氷河まで、色んな世界の海。また、人魚たちの話。人魚たちは歌を使って感情を伝えるのだという。海の中でも人魚の歌は遠くまで聞こえるから、紙もペンもない海の世界では手紙のように使われるんだそうだ。
 そこで僕はメイルにノートとペンをプレゼントした。そして、僕は文字を教えた。まずはひらがなから順に、あ、い、う、え、お、一文字ずつ教えていった。目をキラキラ輝かせながらノートに向かうメイルは見た目相応の少女のようにみえた。それから僕は人間のことを話した。メイルの知らないような、人間の文化や生活、他にも山や森のこと。
「メイルは人間が魚を食べるのってどう思う?」
「別になんとも思わないわよ。そういう仕組みなわけだし。おたがいさまよ」
「人魚は何をたべるの?」
「海の中にあるものならなんでも食べるわよ。魚、海藻、あとは人間が捨てたもののなかにも食べられるものがあれば食べるわね」
「なにか食べたいものがあったら言ってね。持ってきてあげるから」
「ふふふ。機会があったらお願いするわ」
 彼女は嬉しそうに笑った。
 
 またある日、僕は椿ヶ崎に向かった。手には何冊かの絵本を持って。文字を覚えてきたメイルが、本に興味を示したからだ。まだ小説なんかは難しいだろうから、小学生向けのおとぎ話の絵本を何冊か選んだ。メイルが今読んでいるのは『人魚姫』──人魚の悲劇のお話だ。
「あははっ、魚と人魚が会話できるわけないじゃない! 魚に声なんてないんだから!」
 やけに楽しそうに笑いながら、メイルはどんどん読み進めていった。
 人間の王子に恋した人魚が、声と引き換えに足を手に入れ、王子に会いにいく。しかし、王子は別の女性と結ばれてしまい、人魚は人魚に戻るために王子を殺すことを迫られるが、最後には王子の幸せを願って手にしたナイフを自分の首に刺し泡となって消えていく。
「あーあ、面白かった。人間は人魚をこんなふうに見てるのね」
「人間の中には人魚を恐ろしい怪物だと思ってる人もいるよ」
「そうなのね。人魚には人間を食べ物を捨ててくれるってありがたく思ってるのが多いわ」
 メイルは絵本の終わりの方のページを繰り返しめくりながら話した。今思うと、メイルは少し悲しそうな表情をしていたのかもしれない。
「この人魚はかわいそうね。王子に出会わなければ生きていたかもしれないのに」
 そう言うと、メイルは絵本を両手でパタンと閉じて、こちらに向き直った。
「そういえば、ミナトはどうしてここに来たの? 今じゃなくて、初めて出会ったあの日」
「僕はいやなことがあったとき、ここで海を見るようにしてたんだ。ここは、僕にとって落ち着く場所だから。あんまり他の人も来ないしね。ここはその……自殺の名所ってやつだから」
「あら、そうなのね。こんなにも素敵な場所なのに。でも、それで」
 メイルは何かに納得したような表情を見せた。
「いやなことがあったとき、メイルならどうする?」
「わたしは歌うのよ。歌なら自分の気持ちを素直に口に出せるもの」
 メイルはさも当然のように答えた。
「いつも歌ってるあの歌も?」
「そうね。あの歌はわたしにとって大切なものなの。ミナトには大切な歌はあるの?」
「僕にはないかな。でも、メイルの歌を聴いていると僕も落ち着くんだ」
「あら、うれしいわ。あれはわたしの家族に宛てた歌なの」
 メイルは僕に家族のことを話した。
「わたしの家族はもう何十年も昔に死んじゃったわ」
 尾ひれで海水を掬いながらメイルは言った。
「わたしが少し遠くに出かけてる間に、お父さんもお母さんも」
 尻尾の水に映るメイルの表情は寂しさや悲しさとは違った、なんというか謝罪のような面影を落としているように見えた。
「それからわたしはずっとひとり」
「さびしくはないの?」
「どうなのかしら。でも今は、あなたがいるから」
 メイルは尾ひれから水をこぼし、僕の目を見てそう言った。僕は少し照れくさくなって海の方へ目をそらした。
 幸せ、と言う感覚が確かにそこにあった。

 出会いから三カ月がたったころ、僕は人魚について図書館で調べていた。人魚に関する世界中の伝承や日本のおとぎ話、そして街の椿ヶ崎にまつわる歴史。何日もメイルと過ごす間に、僕は彼女のことをもっと知りたいと思ってしまった。
 日本の人魚関連の伝承で有名なものには八尾比丘尼伝説がある。人魚の肉を食べた女性が不老不死の体を得てしまうお話。この話では、その女性はそのことを悲しんで出家し、人目にふれることなく姿を消してしまう。彼女が姿を消した場所には、椿の花が咲いていた。
「そういえば、メイルは何歳なんだろう」
 街に関する資料には人魚についての記述はなかったが、何十年と生きていると言っていたし見た目通りの年齢ではないのだろう。ひとり姿を消した八尾比丘尼と、ひとり崖で歌うメイルの姿が重なり、急に儚く寂しげに思えてきて、メイルと今すぐ話がしたいと思った。
 いつもの道を通って崖の下に向かう。今日もメイルの歌声は聞こえていた。僕が焦ったように駆け込むと、メイルは少し驚いて笑って見せた。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「い……いや、なんとなく、ね」
「ふふふ、へんなの」
 メイルはすっかり見慣れた笑顔を浮かべた。今はそんな笑顔も壊れやすいガラス細工のように見えた。
「メイルってもう何年生きてるの?」
「そうねぇ。もう何百年になるのかしら」
「人魚の寿命ってそんなにながいの?」
 メイルは一瞬答えにくそうに表情を固めたが、僕の方に向き直って、
「いいえ、ふつうは百年くらいよ」
 と言った。
「じゃあメイルはすごく長生きなんだね」
 またメイルは答えにくそうにする。
「……ミナトは人間の寿命ってどれくらいだと思う?」
「えっ……うーん、七十年くらいかな」
 話題を変えられたことにびっくりしたが、メイルは話を続けた。
「いいえ、人間はきっと三十年くらいね」
 メイルは僕の目を見ていた。
「そんなことないよ。日本人の平均は八十超えるくらいだってテレビで……」
「ミナトは肉を食べる?」
 メイルの表情は、いつの間にか笑顔から無表情ともとれるまじめなものに変わっていた。
「えっ、うん。食べるよ」
「魚は食べる? 植物は食べる?」
「もちろん」
「ミナト、生き物を食べるっていうのはね、寿命を食べるってことなの。もっと生きるはずだった生き物から寿命をいただく、それが食事なの。動物は生き物を殺して、そして食べて寿命を延ばしていくの。だから、年を取って食べるものが減るほど寿命が短くなっていく。人間も本来は三十年くらいのはずよ」
 メイルの言うことには、とても一人から発される言葉とは思えないほどの重みがあった。
「じゃあメイルはたくさんのものを食べてきたから長生きってこと?」
「それもあるけど、残りの寿命が長いものを食べるほど長生きできるのよ。ここはたくさんそういうものが落ちてくるから」
「……どういうこと?」
「ここで初めて食べたのは十五歳ぐらいの男の子だったかしら。わたしが家族と一緒にここに来て一カ月がたったくらい。わたしが見つけたときには体中ボロボロで。ずいぶん波に打たれてたのね。でも、そのままにしておくわけにもいかなかったから」
「な、なにを言ってるの」
「二回目は二十歳くらいの女の子だった。彼女もずいぶんなありさまで……」
「ちょ、ちょっと待って。に、人間を食べたの?」
「……ええ。ここには寿命を多く残した人間が落ちてくるもの」
 メイルは僕の目を見ていた。
「でも、だからって──」
「人間を食べるのがそんなに不思議なこと? 生きるためには必要なことじゃない」
 僕を見るメイルの目は、どこまでも真剣だった。でも、僕にはその琥珀色の目の奥に得体の知れない何かが眠っているように見えて、僕は。僕は逃げ出した。ひたすらに走って。背中から彼女が何かを言っていたような気がするが、僕の耳には届かなかった。

 それから、僕は一度も椿ヶ崎に近づかなかった。メイルに逃げ出したことを謝りたかったが、拭いきれない恐怖心がそれを許さなかった。数年後、僕はそのまま大人になり、街を出ていった。

 

 五年後、僕は街に戻ってきていた。地元の企業に就職することになったのだ。たった五年、でも街の様子はすっかり変わってしまっていた。家族や知り合いは歓迎してくれたが、見慣れない街並みにどことなく疎外感を覚えた僕は、追い出されるように慣れ親しんだあの場所にたどり着いた。
 五年ぶりの椿ヶ崎は全く変わっていなかった。太陽が反射する海も、崖の下へ伸びる坂道も。ただ、あの歌声が聞こえてくることはなかった。
「謝りたいなぁ」
そうつぶやいた僕は、かつてのように坂道へ吸い込まれていった。仲直りした後は何をしようか、なんて楽観的に考えながら。
 崖の下もあのころと変わっていなかった。ごつごつした岩肌に、なんども見たあの岩が鎮座している。僕は、そのときになって緊張しはじめた。あの時と同じ──僕はちゃんと謝れるだろうか。また友達に戻れるだろうか。あの思い出は僕の中でもいつまでも特別なものなのだ。
 僕は彼女を驚かせるつもりで勢いよく飛び出した。しかし、結果から言えば、僕の方が驚くはめになった。彼女は、確かにそこにいた。ただし、すっかり変わり果てた姿で。彼女は死んでいた。あの美しかった肌はどろりと垂れて腐り、下半身もうろこは光を失いところどころはがれ落ち、上半身と下半身を合わせてやっと彼女とわかるほどだった。首があったであろうあたりには真っ暗な汚れが染み付いていて、傍には一本のナイフが、赤黒く錆びついたナイフがギラギラと西日を反射していた。僕は吐き出しそうに、泣き出しそうになるのをぐっとこらえて立ち尽くした。
 彼女の手元には開かれたノートがあった。いつか渡したあのノート──ずいぶん残りのページが少なくなっていることに気がついた。今でも持っていてくれていたことにわずかに喜びを覚える。開かれたページにはゆがんでいるが見慣れた文字で僕への手紙が書かれていた。

 ミナトへ。
 この手紙を読んでいるってことは帰ってきてくれたのね。
 わたし、死ぬことにしたの。
 わたしの寿命はあと二百年くらいっていったわよね。
 人間を数人食べただけじゃここまで伸びないわ。
 わたし他にもいろいろ食べてきたのよ。
 たとえば、人魚とかね。
 わたしの家族ね、自殺だったの。
 わたしがすみかに帰ったときに、お父さんもお母さんも、喉のところに貝がらをさして、抱き合って死んでいたわ。
 まだ小さかったわたしには理由もわからなかったけどこう思ったののはおぼえているわ。
 食べなくちゃって。
 わたしは本能でいきたいと思うものをいきものと呼ぶわ。
 だからあの日お父さんやお母さんを食べたのもいきものとしては当然だったと思ってる。
 でもね、ときどきあの時のことを後悔することがあるんだ。
 その時はすごく嫌な気分になる。
 自分を否定しちゃいたくなるような。
 だから、わたしは歌うの。
 いつも歌っていたあの歌は、家族に捧げる懺悔の歌。
 でも、今のわたしは生きたいと思えてない。
 別にミナトのせいだなんて考えないでよね。
 そうね……もういい加減飽きてしまったのかもしれないわ。
 だから、ね。
 ナイフは海の底で拾ったわ。
 まるで悲劇のお姫さまみたい。
 人魚の肉は人間にとっておいしいと聞くわ。ミナトはいっぱい生きるのよ。

 手紙を読んだ僕にやるべきことはひとつだった。地面に落ちている彼女に向かい合う。僕は彼女のかけらを拾い上げ、一口。
 食べた。
 味なんて全然わからなかった。でも、もっと食べなくてはいけない。そう思った……気がする。そこからはもう目なんて暗んでしまって、夢中で食べた。泣きながら食べた。食べて、ぐちゃぐちゃになりながら食べて。気が付いたときには骨がいくつか残るくらい、僕は食べつくしてしまった。何も、思えなかった。でも、彼女のあの歌が聞こえたような気がした。いつもと同じ、あの優しい歌声が。

 それ以来、僕の見た目は変わらなくなった。体調が悪くなったり、髪や爪が伸びたりすることもなかった。人間離れ、という感覚。
 人からも気味悪がられるようになった僕は、人目を避けて暮らすようになった。それでも、自分自身が変わってしまったことは僕を苦しめることになった。あの日の選択を後悔する日もあった。でも、そんな時に限って彼女の歌が頭の中に聞こえてくるような気がした。いいんだよ、ありがとう、って。そんなのが救いになるわけもなく、むしろ僕の首を閉めるように感じるのだった。
 
 苛まれる生活が五十年ぐらいたった今、僕はまた椿ヶ崎に立っている。これだけ長い時間がたってもここは全く変わっていない。でも、僕がここに来た理由は、子どものあのときとは違う。死ぬために。ここから飛び降りるために。五十年孤独で、それで僕には生きる意味がわからなくなってしまった。きっとメイルも同じ気持ちだったろう、と妙な確信がある。
 崖の先に立つと、足元にあの岩場があった。あの日のことなんて忘れてしまったみたいに、何もない岩肌が見える。前を見れば一面に広がる海原。今日はあの始まりと同じ晴れ。耳をすませば彼女の歌声がまた聞こえそうだ。靴を海に向けて揃えて、僕は目をつむり、体を前にたおした。
 
 どぼん。

 
 
 海上を覗くように水面から飛び出たひとつの頭。頭は人と変わらないが下半身には魚のうろこが続く。目の前には死体がひとつ。遠くから流れてきたのか、すっかりぼろぼろでもう原型もわからない。人魚の目にはその死体が他のものより際立った魅力を持っているように見えた。
 人魚は死体を食べた。
 人魚はあと何年生きるのだろう。

fin.


 いかがでしたでしょうか。以上私の高校生活最後の作品となります。
 最近命について考えることが多くなって、ちょっと思いついてこれを書くことに決めました。自殺と寿命と人魚の関わりがとてつもなく深いことに気づいたのがこの作品の構想のきっかけです。
 恋愛を書くのが苦手で、がっつりその要素を入れようかどうか迷ったのですが、まあ曖昧ぐらいにぼかすところで落としました。男女の方がセリフの書き分けが楽なんだ……。
 大学生になったらこんな創作をしてる時間があるかどうかもわからないので、文化祭では5000文字の指定があったので満足に書けなかったこの作品を最後まで仕上げたいと思って加筆いたしました
 楽しんで読んでいた抱くことは難しい内容だと思いますが、生きること、自分のことについて考えるきっかけにしていただけたら幸いです。
 それでは、ありがとうございました。

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