求愛

「愛してる」という言葉が嫌いだった。

誰もかれも、相手への期待や自分勝手なお節介に「愛」とラベルを張り付けて差し出して、身勝手に愛の交換を要求する。愛は呪いで「あなたを愛しているから助けてあげる」と言われれば、それはのちに「どうしてあなたは私の為にこれくらいのことができないの」と自分に返ってくる。
それが現実の愛の正体で、相手の望む愛を返せなければ、自分は悪者になる。
私は愛が関わる関係をすべて希薄にしたかった。家族と連絡は極力とらないし、恋人もいらない。全部合理的な関係性で、社会性を保つ最低限の繋がりを維持して心の安全を保って生きていこうと思っていた。

だからアイドル現場は快適だった。アイドルとオタクの間には運営が入ってくれるし、オタクの友達は人を選べるし居なくたって通える、好きな音楽やステージの話を、クリエイター本人と””安全””に語れる場所。人間関係に疲弊した自分の療養にはちょうどいい場所だった。
ただ、やはり人と話すときには「相手の期待してる答えを探す」癖が抜けなかった。逆に「相手が自分に都合のいい言葉を探している」ことにも敏感だった。いつでも安全な会話をするために脳をフル回転させていた。(自分が傷つくことより相手が自分のせいで傷つくことが耐えられなかったので、自分と嚙み合わずに相手を傷つけてしまうように思ったら距離を置いていた)

そんな感じで、コンサートや演劇を鑑賞するような趣味の延長として心の安全を守りながらアイドルを楽しんでいた時に、HULLABALOOの甘音かのんに出会った。最初の数回のライブはHULLABALOOのライブが面白くて、いつも通り感想などを話しに行っていた。ただ会話を重ねていくうちに、自分の癖が少し抜けていることに気が付いた。というより彼女と話していると「何を期待されているのか分からない」のだ。ただ取り留めのない質問に答えたり、むしろ「今日この曲のここすごく楽しかったでしょ」と自分の心を言い当てられたりしていた。そこに承認欲求など心の防衛のためのコミュニケーションは無く、ただ楽しかったことの共有をする時間が流れていたように感じた。

そんな時間が本当に愛おしくて、大切だった。キラキラしたステージを見てその話を共有する、それだけの為にお金も時間もかけて、時にはライブ会場まで走って汗だくになっていた。そのうちオタクの知り合いも増えて、感想を言い合える機会も格段に増えた。もちろん違う意見はたくさんあったけど、それは好きなものがはっきりしている上での差で、ハマったライブの時のオタクの顔は最高に楽しそうなので、どんな話も楽しく聞けた。

今になって思うが、このコミュニケーションが私の見つけた愛だった。究極的には相手の気持ちを聞き出すことだけが本質で、それに対するアクション(お金を払う、気遣う、結婚など)は愛の付属品に過ぎない。相手の気持ちを知ることが愛することなら、お互いに示しあって知り合うことが「愛し合う」ことになり、付属品のお金や行動はその人の人生のリソースに依存する。このリソースを通してしか愛を認識できない人や、ろくに聞きも考えもせず相手の気持ちを決めつける人が、理不尽な愛を押し付けているに過ぎないのだろう。

HULLABALOOの主催対バンライブには「求愛」というタイトルがついている。最初はなんともロマンチックで如何にもアイドルらしいタイトルだと思っていたが、今ではこれ以上にこのグループを表すタイトルはないと思っている。
このグループの曲は主観的な歌詞が多いように思うが、そこには作曲者の「こういうこと思ってんだ!」「こういう感情っていいよな!」という気持ちが籠っているように思うし、アイドルはそれにそれぞれが自分の思いを込めて歌っている。特にアイドル本人が共感しているであろう部分はさらに熱を込めて歌っている。そのステージを見てオタクも自分たちの感情をさらけ出すのだ。まさに「求愛」にふさわしい愛に溢れたライブがそこにあった。誰に強制されるわけでもなく自分たちの頭で考えて、感じている人間が集まっているから成り立つ空間だったのかもしれない。

僕が一人のアイドルに愛を教えてもらったお話です。


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