業について考えるver1

ごきげんよう。

つくづくこの「業」という文字は不思議に思う。

仏教用語でもあるし、事業、職業などお仕事のことを表すし、わざ、生業など生きるすべのことを言ったりもする。

一人で黙々とすることはあんまり性に合わないので、セッションをしたい。

業を持つことで、時に自らの意思の範疇が及ばない巨大なものに突き動かされたりもする。

簡単には断ち切れないのだ。
自分には業があるのかないのか。

しばらくはそこについて向き合いたいと思った次第。

一人で黙々延々とするの好きじゃないから誰かセッションしようぜ。

※最近はあんまり筆が乗らないので、この段階でリリースします。
じわじわ追記される(かも)

それでは。

0123 ある取り組みを始めた人の話

https://twitter.com/fukutaros/status/1617123836604076032?s=46&t=g-iT8Tb09MOAAvVRpNrpJA

今日、地域での名が知られた方が思いもよらずご近所だったということでご挨拶に伺った。

メディアには出てこない混乱期の話や、今何をおもうかのあれこれを教えてもらえた。

印象的だったのが、とある取り組みを呼びかけてみんなで始めたが、一人また1人と離れていき、今は誰も来なくなってしまった、というお話。

しかし発起人でもあり、かつ「ああ、あの○○をしている人ね」というラベルだけが一人歩きしたこともあり、半ば義務を感じながら取り組み続けているとお話くださった。

その方はNPOで取り組み始めたが、大きな括りでは「起業」なのだろう。
業を起こす。過程で乗っかる人はいたとて、最後はその渦を巻き起こしたもののみ。最後に信じて責任を負えるのは自分しかいないと。

進撃の巨人でも同様のニュアンスの駒があったなと思い出した。
強いメッセージ性を感じたので、随想録に掲載いたしました。

今日はここまで、それではまた。


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