整理

 ここ一年くらい、自分がこんなに苦痛を感じている本当に理由が明確になった気がしている。それは、違う自分になろうと努力しているからだ。今の自分を改善し、よりよい自分になろうとしていたからだ。
 でも、そんなことを求めても無駄なのだ。自分を変えようとしても、苦痛しか起こらず、大きな結果はもたらされない。もうずっと前からわかっていたことではないか。むしろ、僕の方がそう主張していたのではなかったか。


 努力が必要ないという意味ではない。今ある自分をきちんと受け入れるべきということだ。何に向かって努力するかをきちんと選ばなくてはいけない。自分にないものを求めても、得るものが少ないだけでなく、苦痛は倍増する。そうではなく、自分にできることを誠実にきちんとやる努力が必要なのだ。
 自分の器を越えようとしても、何も起こらないどころか、事態は悪化するだけだ。他人に迷惑をかけ続ける結果となり、さらには自信を失うことにしかならない。それはもう、ずっと前からわかっていたことではないか。


 何に対して努力するかを考えるということは、できることとできないことを明確にするということだ。その上で、できることで何とか世の中と繋がろう、できることで生きていこう、できることで生き残ろう、そういうことだ。
 できることで生き残ろうとすることは、生き方を選んでいるとも言える。けれども、その一方で、できることとできないことは自分自身で選んでいるわけではない。自分の生得的な、あるいは環境的な要因で「選ばされている」ものだとも言える。何ができることなのかを自分の意志で決めることはできないのだ。どんなにそれをしたいと思っていても、結果としてそれはできないということはある。まして、「生き残る」ためのすることなのであれば、それはますます自分の意志だけでは決められない。自分が選んだことが他人に受け入れられる保証などどこにもないからだ。
 その意味では、生き方は自分で選んでいるのではなく、「選ばされている」のだとも言える。

 この「選ばされている」という感覚を、僕はさまざまな経緯から、ある種の痛みとともに実感している。人は自分自身の努力だけでは如何ともし難い。そう思うようになったのも、この実感と強く関係している。

 逆に言えば、これは「諦める」ことと等しい。
 事実、僕はさまざまな物事を諦めることでここまで生きてきた。世間的に普通と呼ばれる思考回路を持ったり、普通とされる生き方をしたり、そういうことができないとわかったのは、かなりの年月を生きてからのことだ。いろいろなことが自分には難しいと理解して、やりたいと思っていたことを諦めながら、自分にできることを見つけていった。


 だからこそ思う。自分を変えようとしても無意味だ。自分には自分のできることしかできない。
 それは、ありきたりの言い方をするなら、「分をわきまえる」ということなのだと思っている。


 

 だから、無理をして自分の器以上のことを求めないようにしようと思う。いろんな意味で、僕は能力的に平凡を下回るのだから、多くを求めずにできることを地道にやろうと。できることを絞った上で、せめてそこでは成果を出そうと。
 周りにいる人がどんなに輝いて見えたとしても、それは自分には手が届かない、自分と遠い世界の出来事なのだ。そんなものを手に入れようとしても、得られる喜びをはるかに上回る苦痛を得て、自分を壊してしまうことになるのだ。

 これが自分だと思えることに関して、地道に誠実に努力を重ねればいいのだ。
 それが他人からどう思われたとしても。

 ただ、明確に境界線を決めるというわけではない。自分の中に、あるいは自分の周りに何か変化があったときに、改めていろんなことを考えればいいのだ。


 だから、他人に対しても、無理に好意的な態度を取らなくてもいいのだ。
 何も他人に敵対的になろうとしているわけではない。礼儀正しい無関心でいいのだ。その時の状況に応じて誠実であればいい。自分がそうすべきだと思うことをすればよい。そして、自分には重すぎるような関係性を構築しなければいい。
 自分はそこまで、多くの人と上手くやっていけるほど、人間として器が大きいわけではない。そういう人間であることを踏まえた上で、何ができるかを考えればいい。


 だから、どんなに敬愛し尊敬している人であっても、僕に対する態度如何では「敵」にも「裏切り者」にもなってしまうのだけれども、それはそれでいいのだ。もう、そういう人は、尊敬していても敬愛の対象であっても、同時に「敵」であり「裏切り者」だ。それでいいのだ。そう思ってしまうのは自分の心の弱さ故なのだったとしても、そういう自分であることを受け入れてどうすればいいかを考えればいいのだ。
 だから、自分に辛い思いをさせた人はいくらでも憎めばいいし、そういう人とは関わりを持たなければいいし、憎み続けるのが辛ければそれなりの対処をすればいい。

 尊敬と親愛の情は今でも変わらないが、もう信頼はできないし、許すつもりも全くない。前者は人格と能力に対するものだが、後者の信頼と許容は自分への言動に対するもの。両者は全く別のものだ。だから、互いに矛盾しているようでも、自分の中では両立する。
 繰り返しになるが、今でも尊敬し敬愛している一方で、信頼は全くしてないし、自分から許すこともない。


 そういう自分を、受け入れることにする。


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