かつてよく通った道

 久しぶりの人たちと、初めての場所で行った演奏は、会場となった空間が素敵だったこともあって、結構気持ちよく終わることができた。
 いっぱいの本が壁一面に並べられたその空間は、本当に本当に気持ちよくて。近所や通勤途中にあったなら絶対に通っていたと思う。なんとなくだけれど、スタッフが気持ちいい人だからなんじゃないだろうか。

 色々考えた末に新しく買った楽器も、その時に初めて人前で吹いてみた。重さを感じるけれど吹きやすいのはわかっていて、ただそれでもやはりバテてしまうことをカバーするまでではなかった。
 尤も、それは「慣れ」によって克服できるものであるような気もする。希望がないわけではない。

 ともあれ、楽しく演奏することができて、お客さんもそれなりに喜んでくれて、いい時間を過ごすことができた。ありがたいことである。


 その帰り道のこと。
 なぜだか、昔のことを思い出す。今は失われた幸せな時間。いや、正確に言うならば、幸せであったはずの時間が、もはや苦痛しか生まなくなってしまったその過程。
 それもそのはず。その道は、かつてよく通った道だった。幸せだったときに、何度も何度も。実際のところは、いつもいつも通っていたというわけではなかったはずなのだけれど、よく通ったという記憶が残っている。不思議なものだ。
 けれども、そのよく通った道を通りながら思い出すのは、もはや幸せな記憶ではない。頭に思い浮かぶのは、もはや、それを喪わせた当のその人への恨みの感情でしかない。

 その感情は、今でもなお、毎日のように襲ってきては肺や胃の奥を焼いていく。あのとき以来、ほんとうに、毎日のように。思い出したくてそうしているわけじゃない。制御できないのだ。
 ただ、かつてよく通った道の途上で浮かんできた感情は、確かに同じ種類のものではあったけれど、いつも感じるそれとは少しだけ違っていたようにも思う。
 
 いつも感じる過去の記憶の想起、そしてそれに伴う恨みの感情は、今ここを生きている僕自身と切り離されずにあるものだ。それは過去の記憶であると同時に、現在の感情でもある。過去と現在は一つにつながっていて、その意味では過去は過去ではなく現在に属している。恨みの感情と、その原因となっている過去の出来事は、あくまで現在のものなのだ。
 おそらく、その原因となった当の人は、僕の記憶にある出来事を「過去」として遠ざけてしまっているのではないかと思う。それは「終わったこと」として、現在からは切り離された過去となっているのだろうと思う。
 でも、僕にとっては、それは今なお「現在」に属している。過去のことだが「現在」に属しているのだ。その意味では、終わってなどいない。だからこそ、今でもなおその記憶は恨みや痛みを現在の僕に与え続ける。

 一方、かつて通った道を通ったとき、そこで感じた感情は、恨みというより哀しさというべきであるような気がしている。
 現在の自分が感じる「恨み」というより、過去の出来事を眺めてそこに哀しさを感じているような状況。具体的な他者に対する強い負の感情というより、それをめぐる一連の出来事に対する、かつてあった幸せが失われたことに対する哀しさ。
 記憶に対する感情が和らいだというのではない。もしかしたら、その記憶を距離を持って眺めているような感覚に近いのかもしれないが、それにしては感じられる悲しみは強すぎる。決して、その出来事や記憶が、過去の領域に、つまりは今の自分から距離をとって眺める対象になったわけではない。
 ただ、それでも、現在における「恨み」というよりは、過去の出来事に対する「哀しみ」という表現の方が適切であるようには思われる。

 その微細な変化が、何故に起こったのかは、まだわからない。
 完全に過去のことになったとは言えない以上、距離を保つことができるようになったのだと結論づけることはできない。もしかすると、心地よい空間で音楽ができたことが関わっているのかもしれないが、もちろんそうではないかもしれない。

 何より、微妙に変化があったらしいことは確かだとしても、今でもその記憶に対する強い哀しみと、そして恨みの気持ちが消え去ったわけではないのだ。


 そして、もう一つのことを思い出す。
 この日は、別のところでも演奏が行われていることを。

 ありがたいことに僕の音を評価してくれていたようだけれど、自分が評価していた相手に恨みを与える形で消えて行ったその人は、一体どういう思いで音を出すのだろうか。
 

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