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社会的弱者を抱える、すべての人に伝えたい

良心の呵責に苛まれることがある。
私は無力だ。
私は弱い。

ちっぽけで愚かな人間だ。
今の幸せが、平穏が、この手からすり抜けてしまうかもしれない…その事実に、心を大きく乱されている。

昨日、義母が入院している病院へ行ってきた。
新型コロナ対策のため、面会謝絶となって3週間あまり。
義母の容態は思わしくない。

というのも、もともとものすごく寂しがり屋な人なのだ。
毎日顔を見て、世間話をたんまりしていないと、どうしようもなく不安に駆られるらしい。
義母の拠り所は、同居していて身の回りの手助けをしている私である。

義母は私の作るご飯が大好きで、早く家に帰ってご飯を食べたいという。
家族をとても尊ぶ人で、どんな状況であろうと家族を案じることを忘れない。
だから、私の顔を見れば必ず「家の方は変わりない?」と、尋ねてくれる。
どんなに痴呆が進もうと、どんなに苦しかろうと。

友人も多く、とても社交的な人だ。
とても精力的で、活発な人であった。
連れ合いに早く旅立たれ、嫁の立場でしがらみに苦しめられた、苦労人でもある。
よくできた人だ。
尊敬すべき人だ。

でも、私には義母が重荷だ。
とてもとても、重荷だ。

義母を介護するようになり、丸2年ほど。
正直、私のやっていることなんか大したことない。
今回、入院する前までの義母は、みんなと同じご飯をパクパク食べていたし、トイレも自分で済ませていた。
ちょっと物忘れがひどくて、足腰が弱い程度。
外出は車椅子という、制約がある程度。
探しものに付き合ったり、同じ話を繰り返し聞いていれば問題なかった。

そう、介護する側がちょっと我慢すれば、義母は問題なく自宅で過ごすことができた。

私は情の薄い人間だけど、義理堅い面は持ち合わせている。
義母の身の回りのお世話をすることが、私に課された運命だというのは結婚した時から理解していた。
その時がやってきたというだけで、驚くことはない。
定められた通り、お役目をこなせばいいのだ。
それが嫁の務めであると、私は理解していた。
そうあるべきだと。

しかし、いざその場に直面してみると、私の感情は反発した。
同じ会話を繰り返さなければいけないことに、苛立ちを感じた。
無意味な探しものに付き合うことが、とんでもなく無駄に思えた。
車椅子で外出するのが、おっくうでたまらなかった。

でも、そんなこと言えやしない。
誰が悪いわけでもない、でも私が受け止めなければならないというジレンマ。
私にも良心があったが、感情に振り回されることも多かった。
義母に接する度に苛立ち、無口になり、互いに言い争うことも多かった。
私が大人気ないのだと、わかっていた。

そんなとき、私の良心は声を上げて泣いていた。
義母が繰り返し呼んでいる。
しまいには怒りだす。
でも、私はその声に反応しない。

だって、いつもいつも相手をするのは疲れるから。
聞こえないふりの1つや2つ、許されたって良い。
私の感情は、そう告げる。

しかし、良心がそれを許さない。
なんとも言えない思いで、胸の中が埋め尽くされる。
結果、義母に接していてもいなくても、私は心が休まらない。
日常的に、苛立ちが増幅する。
こんなこと、誰のためにも良くないとわかっているのに、どうにもこうにも止まらない。

そんな私に理性を取り戻させてくれるのは、周囲の言葉だ。
ケアマネージャーさんが訪問した折に伝えてくれる「いつも頑張ってますね」の一言。
義母の子供に当たる、義妹、義弟がいつも伝えてくれる、心からの「ありがとうございます」の言葉。
義母の友人と会うたびに言われる「お嫁さんがいてよかったね!」という会話。

みなさんからお褒めをいただくことで、私は報われる。
とんでもなく自分勝手だが、褒められることでしか報われない。

私がしていることは、正しいことなんだ。
やってよかったんだ。
この人のために尽くして良かった。
心の底から、そう思える。

なんて浅ましいんだろう。
なんて了見が狭いんだろう。
情けないが、本当にそうなのだ。
義母と相対する原動力は、周囲に褒められることに尽きる。

もちろん、義母が私を慕ってくれるのは嬉しい。
義母が感謝を伝えてくれるのも、嬉しい。
義母が私を頼ってくれるのを見れば、情も湧くし、頑張ろうという気持ちにもなる。
でも、それだけでは長続きしないのだ。
なんせ私と義母は、一緒にいる時間が長すぎる。

互いを思いやる気持ちよりも、日常のいざこざのほうが多すぎる。
だから疲弊してしまう。
だから気力が無くなってしまう。

私はなんてことを口走っているんだろう。
これはある種の虐待なのではないか。
私は義母を疎ましくこそ思え、尊敬や感謝の念を葬り去ってしまったのではないか。
そんな私が義母のお世話をすること自体、間違っているんじゃないか。

いくら考えても答えは出ない。
それでも、日常は変わらずにそこにあり続けるし、義母は私を必要としている。
義母には私しかいない。

私がどんなに苦しかろうと、しんどかろうと、気力が1ミリも無かろうと、そんなことは関係ない。
義母には私が必要だ。
そして、私には義母が重荷だ。

義母がいることで、私は自由を奪われる。
義母に接する時間が増えて、家事や仕事に充てていた時間が減っていく。
そんなの天秤にかけちゃいけないってわかっているけど、だって義母に費やした時間は誰も補填してくれない。

どうにも変えられない現実を、私はどうやって乗り越えれば良いんだろう。
義母の退院する日が決まった。
大腿骨骨折のため入院し、足腰は更に弱まった。
認知もどんどん進み、さらに会話が困難になった。

もう、この気持ちをどうすればいいのか私にはわからない。
どうやって毎日を乗り越えていけば良いのかも、わからない。
ただただ、良心が押しつぶされないように祈るばかりだ。

どうしよう。
私は怖くて怖くてたまらない。
義母と一緒に暮らす日常が、怖くて怖くてたまらない。
この気持ちをどうすればいいのか。
わからないから、ただただ吐き出したかった。

一つだけわかることがある。
私の良心は、それでもまだ生きている。
まだ必死に抵抗している。

もしこのnoteを読んだ方の周りに、同じように悩む人がいるのならどうか一言だけねぎらってあげてほしい。
気遣ってあげてほしい。
頑張りすぎないように、声をかけてあげてほしい。
手を差し伸べてあげてほしい。

私ならそうしてほしい。
「助けて」なんて言えないから。
どうかどうか、どうにもならない現実に立ち向かうすべての人に、救いの手が差し伸べられますように。

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