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f o u f o uにおける人事評価ってなんだろう - エピソード0 -

最近、すごく文章が書ける。それはこれまでは1人のデザイナーとしてしか見ていなかったブランドが独立したことで会社という視点で見はじめたことが大きなきっかけになっている。自分の視座が上がっているのか、とにかく色々文章にまとめることが増えた。

社内では「社長ってなんだろう」というスラックチャンネルを作った。「すでに社長になっている人」はよく見る(?)けど「これから考え方も社長になっていく人」を見る機会ってあんまりないし、僕もいろんな考えが変化していたりするタイミングなので「プロセス」を感じ取ってもらえたらなとツラツラ書いている。

その中で共有した「foufouの人事評価を考える」という「人事評価をしたこともなければ、されたこともない私」が人事評価に向き合ってみるというメモを公開してみる。

「人事評価制度に終わりなし」という親心で暖かく見てもらえたら幸いです。

foufouの人事制度を考える①

結論、僕に『人を評価するなんてできません。』
僕はこれから社長になるということで、人事制度についても向き合わなければならなくなりました(困)
人生で評価制度に基づいて管理されたこともほとんどなければ、当然誰かを評価する局面にもほぼ立ち会ったことがないんです。

「人を評価する」ことは難しいし「僕がするのかぁ😅ぎょ」と思ってしまいます。そもそも僕自体が、仕事においての能力が低く、それを自分で知っているので違う部分で社会に貢献しなければと考えた結果が今の自分ですから、仕事のスキルを評価できる立場にないわけです。なので現状は人を”評価”する制度はあまり向いていない気がします。

ただどんな会社でありたいかを想像すると「自分のできる領域を広げたい」「自分のキャリアのために上を目指したい」という人がいてもいいし、「できる範囲の中で仕事と向き合いたい」「何かを達成したいという欲はないけどよりよく仕事を続けたい」という人がいてもいいと思っています。

僕は仕事が好きですしどんな時間も仕事のことを考えていますが、同時に「仕事以外に人生に彩りを持っている人とも仕事がしたい」と思っています。なのでそういうことに柔軟でありたい。

ただなんにせよそういったチームを成立させるには、それぞれが「自分で自分をちゃんと認識できているか」が大事だと思います。

「地図は目的地を知るためのものでない、現在地を知るためのものだ」とは誰かしらの偉い人が言っていた言葉な気がするのですがまさにで、「こうありたい」の前に「自分は何者か」をよく知るべきなんです。

自己認識できているということは言い換えれば他者認識ができていることでもあり、それができるならそのコミュニティーの精神的な安全性に繋がりそうな予感がしています。
例えば「誰々に気を遣って、、、」結果として仕事に支障が出てしまう、みたいな話が出にくい状態にできるかもしれません。

そのためには「自由であること」そして「それぞれが自律していること」が大事だと思っています。

あ、今途中まで書いてこれがすごく長くなりそうな気がしているのでそろそろ一旦終わりたい。

実はこの自由と自律は深く繋がっています。
「自由とは、欲求に支配されてやりたいようにやることではなく、自らルールを立て、そのルールを守るという自発性、つまり意志の自律そのもの」というカントの言葉があります。

人には道徳的に根源的な「こうありたい」「これは良くない」と言う美学があると信じています。僕がどんどん権限を委譲しちゃうのは「そもそも皆さんの根底にある美学」を信じているからで、それに基づいて権限を行使してくれればイレギュラーな外的な問題にぶち当たらない限り、基本的に問題はないと思っているからです。

つまりルールや規則で縛るのではなく、またトップのエモーショナルな表現で焚き付けていくのでもなく、それぞれの自律性を引き出し、相手と自分、つまり「ポジションと役割」がきちんと認識できていれば、その人の価値は最大化されるかもしれません(そうだったらいいな)

なんだか僕の中では方向性が見えてきました。
もう少し考えてみます。

続く….


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