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そこに愛はあるのか。ファッションと社会をつなぐ服屋の話|ユナイテッドアローズ上級顧問 栗野宏文さん【出版記念企画 第四回】

出版記念対談の4回目は、ユナイテッドアローズ創設者の一人で上級顧問を務める栗野宏文さん。栗野さんは、僕が高校生の頃から憧れる存在で、ファッションを志すきっかけとなった方でもあります。

これまで40年にわたってファッション業界を牽引してきた栗野さんは、今年8月に刊行された著書「モード後の世界」で「いかにして社会潮流を読むのか」というテーマを扱いました。ファッションビジネスと社会は切っても切り離せない関係にあり、また、ファッションを通じて社会に対して何らかの影響を生み出そうという思いのもとで仕事を続けているのです。

規模ややり方は違えど、foufouも同じ思いで持って、洋服を作っています。社会が大きく変わろうとしている今、ただただ不況が叫ばれるアパレル業界ですが、あらためて“服屋”にできることとは何なのでしょうか。

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【プロフィール】栗野宏文/株式会社ユナイテッドアローズ上級顧問 クリエイティブディレクション担当:1953年生まれ。主に東京・世田谷で育つ。中学・高校時代は音楽やイラストレーションに熱中。1977年からファッション業界に身をおく。1989年に現名誉会長の重松理氏らとともに株式会社ユナイテッドアローズを共同設立。長年にわたりバイヤーやブランドディレクターを担当すると同時に、全社のクリエイティブ・ディレクション担当上級顧問を務めている。アントワープ王立芸術アカデミーでは卒業ショーの審査員を務めてきたほか、2004年には英王立芸術大学院から名誉研究員を授与。

社会とファッションの関係性・時代性

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コウサカ:8月に栗野さんが上梓された「モード後の世界」という本の中では、「いかにして社会潮流を読むのか」ということが大きなテーマでした。規模感は全然違えど、僕も少しでも社会をよくしようという思いを持ってブランドを始めたので、こうしてお話を伺えるのはとても嬉しいです。栗野さんはすでに40年以上アパレル業界を見てらっしゃいますが、ファッションと社会の関係性には最初から関心があったのですか?

栗野:洋服屋さんや販売員の社会における位置付けがあまりに低いということを昔から感じていたのが大きいですね。自分が好きで洋服屋をやっていても、例えば付き合っている女性の親から「洋服屋なんかに娘をやれん」などと言われてしまうのは、世の中から認められてないんだなと思いましたし、少しでもそのイメージを覆したいという思いが昔からありました。

自分は78年にビームスに参加しましたが、最初は「アメリカンライフショップ ビームス」という名前でやっていて、アメリカやヨーロッパから洋服を仕入れて販売するという仕組みでした。それで、海外と取引することが増えて、買い付けに行くと、否が応でも日本と世界を比較しますよね。しかも、ただモノを輸入しているんじゃなくて、その背景にあるカルチャーを感じていた。時代的にいえば、アウトドアやサーフィンから始まってプレッピーやイタカジ(イタリアンカジュアル)など、海外の潮流が洋服とともに入ってくる。それを僕たちがハンドリングしていました。

1965年出版の伊丹十三さんの「ヨーロッパ退屈日記」という本にも「どうしてこんなに日本がダサいんだ」ということが書かれていますが、僕も最初はそう思っていたんです。だけど、頻繁に海外へ行くようになると、日本にも素晴らしいものがあるということに気がつきました。時代的にも、ソニーやホンダ、トヨタというナショナルブランドが生まれて、そこにはきちんと企業カルチャーや哲学がある。日本ブランドが世界に認められ、その価値観が世界に食い込んでいくところを目の当たりにしていたので、文化や歴史や社会性と洋服は切っても切り離せない関係にあるということを身をもって感じていました。

コウサカ:最近では、情報やモノが増えた結果、消費者がそれぞれの事象の奥にあるカルチャーにまで興味を持ちづらくなっている印象を受けます。カルチャーを深掘りするのではなく、誰もが“ちょいかじり”をしているイメージです。

栗野:当時は簡単にモノが手に入らない時代でしたから。たとえば、70年代後半にプレッピーが流行った時、ローファーにしても「ラコステ」のポロにしても、アメ横まで行かないと売ってない。しかも、情報を得るにも雑誌しかないから、結局は電車賃を払って、歩いて、自分の目で確かめに行くしかなかった。その違いは大きいと思います。Z世代がデジタルネイティブだということを批判はしないけれども、環境が違いますよね。でも、反対にフィルムカメラとか農業などが新鮮に感じる世代だったりして、見方を考えれば今の時代にも面白がれることが沢山あると思います。

コウサカ:今の時代って洋服だけが競合ではないと思っていて。ライブ配信を見てもらうという観点ではエンタメ産業が競合だし、おしゃれをしてコーヒー屋に行くのであればコーヒー屋だってファッションの一部だと思うんです。だからこそ、ちょいかじりされているな、ということを仕事をしながら切に感じていて、その中の何人かでもファッションというものに深く興味を持ってくれたら嬉しいという思いでブランドをやっているんです。

栗野:「foufou」というブランドが作っている世界には明確な方向性があって、そこにお客さんがついているなら正しいんじゃないでしょうか?「foufou」の洋服って、ある意味ややこしいかも知れないですよね?ただ着るには重くて動きづらかったりして、イージーではない。でも、ファンはそれが好きだからこそ、ある意味でその世界に“参加する”わけです。ある程度の規模までは、そのやり方が続けられると思います。

届けたいメッセージとその範囲

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コウサカ:規模が大きくなると、必ずしもそれだけを続けるのは難しいわけですよね。

栗野:ユナイテッドアローズのように、年商1600億円の規模になると、自分たちのメッセージの届き方は確実に変わります。たとえば「重くても着てほしい」というメッセージを届けたくても通じない人が出てくる。だから「UNITED ARROWS」や「BEAUTY&YOUTH」というように届け方に応じてディビジョンがわかれて行きましたが、全ての根幹にある価値観は当然変わっていないと思います。

自分たちが大事にしているのは「普遍的」で「タイムレス」なもの。最近の他ブランドでいえば、「SCYE」とか「HYKE」とかはまさにその思想をブラッシュアップして生まれたブランドで、彼等が今後どのくらいのスケールになるかはわからないけれど、ある意味ではメッセージが届く範囲内でビジネスをしているし、それ故にハッピーなんじゃないかな。

コウサカ:インターネットの発達によって、そうしたビジネスがやりやすくなったのでしょうか。

栗野:もちろん、規模感の限界はあると思います。大きくなると、メッセージが薄れてしまったり、軸がブレてしまったりするから。僕たちは根幹を変えずに、違う見せ方ができるように事業部を分けてきた結果、ボリュームが大きくなって、上場もできた。

たとえば、今日履いてるデニムはUAのウィメンズ・チーム等で買付けている「TEXT」というブランドなのですが“Farm to Closet”をうたっていて、わざわざペルーまで旅をして、そこでアルパカを育てている牧場主に会いに行って素材を調達し、それを日本で信頼の置ける工場を使って作られている、そういうブランドなんですね。こうした背景をきちんと洋服と一緒に文章で説明しているから、ブランド名も「TEXT」なのですが、こういうブランドが成立するようになってきたこと自体が、時代の流れなんだなと思います。でも、所謂大企業になるのは難しいかも知れない。やりたいメッセージがストレートだから、この規模感でできる範囲でやっていくのでしょうね。

コウサカ:ユナイテッドアローズとしては、規模を大きくしながらも、社会へのアプローチを変わらずに続けている。

栗野:そうですね。われわれが一番大切にしているのは、服と人との関係性におけるメッセージの伝え方なんです。服は使い捨てるようなものじゃないし、トレンドだけを追わなくてもいいんじゃないか?というメッセージを企業を通じて伝えている。丁寧に着てもらえるように、丁寧に売るということが、僕たちのメッセージです。コウサカさんの場合は、中間マージンがないことで価格を維持するというポリシーが一つのメッセージですよね。

それでも服屋をやる理由

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コウサカ:はい。それで、アウトプットとしては、着やすいわけではないけれど、生地が重くても光沢感があるとかドレープが綺麗だとか、そういう楽しみ方を啓蒙している気がします。着やすさに慣れてしまったお客さんに対して、それだけじゃないんだよという選択肢や思いを伝えています。

栗野:「ZARA」や「H&M」しか知らなかった人が「foufou」を知ることで、洋服を丁寧に扱うようになったり、長い期間来てくれるようになる、ということを目指していると聞きました。例えば、最近話題になっている白井聡さんの「武器としての資本論」という本があるけれど、そこでは今は世の中すべてのモノが「商品」だと分析されています。病院とか保険を考えると人間さえも商品ですよね。そんな時代の中で、少しでもでも真っ当な人間と人間の関係をコウサカさんは作ろうとしていると僕は解釈しています。UAは少し違うけれど、商行為を通じてお客さんとの信頼を作っている。単なる「商品化」の波に取り込まれないようにしているという点では、根っこは一緒かもしれません。だって、お金儲けだけ考えたらもっと楽なやり方はいっぱいありますから(笑)。だけど、僕らはそちらにはいかなった。

コウサカ:それは、なぜなんでしょう。

栗野:それ以外だと自分達がやる意味がないからだと思います。本の中でもたくさん「矜持」という言葉を使いましたけど、自分達がやっている仕事にプライドを持ちたいですよね。タイムカードの時間と引き換えにお金をもらうだけの仕事なら、自分の存在意義が薄れてしまう。お金のために仕事をするようになると、額面しか気にしなくなってしまう。年収300万円から徐々に昇級して、年収2000万円になったからといって満足かというと多分キリがない。そして、1億とか2億とか自分が一生かかっても使いきれないお金を稼いだ時に、人は既におかしくなってしまう。

この間とある取材でも「社会的成功とハピネス」について話しましたが、お金は単なる約束ごとでしかない。いくらお金があっても、例えばコロナウィルスにはかかってしまうわけですよね。

少し話はずれるけど、欧米を中心に20世紀後半以降は“頭脳労働偏重”という考え方が進んで、あらゆる産業において、モノを作る工程を片っ端から途上国に工場を移してしまったんですね。日本にはまだ生産機能が残っていたから、今回のマスク騒動でも、国内でもマスクを作ることができたけれど、欧米でも自分達がやっている仕事に意味や誇りを持てれば、本来は工場生産手段を手放さなかっただろうに…。結果的に頭脳偏重になってしまった世界では“自らの手でモノを作ってもしょうがない”という結論になってしまった訳です。

「オリジネーターであれ」

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栗野:「foufou」を着てもらう人とコウサカさんはある意味で共犯関係だから、極端に言えば、相手に無理を強いてるかもしれないし、それでもファンはそれが心地いいと思っているのかもしれない。これはファッションだからこそ存在する独自な概念で、好きな人からすれば服が重くてもいい。でも実際には重くて暑いみたいな事実はぬぐいようがない話でもありますが(笑)。

コウサカ:でも、それを単にデメリットだとせず視点を変えること。人生もそうして視点を変えると心の豊さにつながるかもしれません。

栗野:軽ければいいとか、薄ければいいとか、それだけだと世の中はどんどん希薄化してしまいますからね。矜持を持って、相手が覚悟して着てくれるのなら、それはそれでいいことだと思います。

コウサカ:押し付けがましくないようにはしなきゃいけないですよね。クレームにつながる可能性もあるので、それが伝わらない人には伝わらないようにしないといけない。見つからないようにしなければいけない。

栗野:「見つかるかどうか」というのはソーシャルメディア的な考えだから、そんなことは考えなくていいんじゃないのかな。自分が提供しているものを心地よいと思わない人のテリトリーにまで入ってしまうと、クレームになるけれど、見つかるかどうかの話じゃないと思います。同じ価値観を共有できる人と一緒に育つことが良いのだと思う。

コウサカ:インターネットだと、拡散によって知らない人に届いてしまう。それをきっかけに炎上することも起こりえますよね。

栗野:それは気にしなければいい話だから(笑)。インターネットを自分の味方にしようとするのはいいけれど、それを気にしすぎるとインターネットのルールに対して忖度することになってしまう。だから、パブリックになにかを出した限りは炎上なんて気にしちゃダメだと思います。なにかあったときにどう責任とるのか、腹くくるしかない。

コウサカ:リブランディングやプロダクトに対して消費者が食いついて炎上するような事態もありますがどうお考えですか?

栗野:それも、ソーシャルメディアの宿命だから言われること自体は受け入れなきゃいけないと思う。問題は何かを言われた企業が広告やキャンペーンをすぐに引っ込めてしまうこと。一旦世に出したなら腹をくくって、引っ込めちゃいけないと思います。僕はSNSをやっていないからその事実があることも知らないし、そんなこと関係なく生きていられます。炎上といっても、その発言者が全て、というわけでもないので、気にしなければいいことだと思いますけどね。もちろん、誰かを傷つけちゃいけない。でも、こうした話はSNSのない時代から変わらずあるわけですから。

コウサカ:ただ日本だとどうしても気にしてしまうという風潮もありますよね。

栗野:インターネットだから、日本人だから、という固定概念自体をなくせばいいんじゃないかな。先ほどの話じゃないけど、資本主義から脱却できないという前提があるから、こういう働き方しかできないと思っちゃうけど、そうじゃない生き方をしている人だっていっぱいいるわけだから。

「foufou」だって、オリジナルなことをやってるんだから。ユナイテッドアローズは最初の広告で「オリジネーター」という言葉を使いましたけど、オリジネーターだからこそ、ここまでやってこれた。「foufou」だってオリジネーターなんだから、そこを大事にしたほうがいい。SNSはツールとして使ってはいるけれど、それ以上に服を買ってくれてる人がいて、そのおかげで生計が成り立つ工場があって、コウサカさんがいて、それで回っているんだから、それを一番大切にすればいいと思いますよ。

そこに愛はあるのか?

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コウサカ:最近は僕たちのような規模感のブランドが増えてきて、在庫を持たないことがメリットだとか、儲かるという印象から新規参入する人たちも多いのですが、そこに違和感を感じることがあります。かつて自分がメーカーにいたからこそ思うのは、大きい企業があって工場に発注をしてくれているからこそ、僕らのような小さい規模のブランドが空いた時間で工場を使わせていただけるのだから、正直どこも潰れてほしくないんです。

栗野:そういう、安易に参入するような人が簡単に「アパレル危機」とか言ってしまうし、儲からなければすぐに辞めてしまうんでしょうね。結局は愛がないとダメってことです。コロナ禍によって一番明確になったのは「愛があるかどうか」ということでしょう。自宅にいる時間が増えて家族を大事にする人が増えたはずで、多数が自分は一人では生きていけないんだということに気づいたんですよ。大企業によって工場が動いているからこそコウサカさんも服が作れる、と仰ったようにみんながどこかで誰かとつながっている。

僕の本の中では「可視化」という言葉を使いましたが、コロナ禍によって、全てが可視化され、全員が当事者になった。これが大きな変化です。資本論的に言えば、世の中すべてのモノが「商品化」されたことで、あらゆるつながりが崩れたり、隠れたりしてしまったんだろうだけど、全部がつながっていることに気がつけば、すべての根元にいるのは人間だし、ひとつも疎かにできないということを再認識できた。

公害問題なんかもそうで、生活排水に一人だけ気をつけてもしょうがないと思う人もいれば、ちゃんと協力しようという人もいる。電気自動車もそうですよね。自分が使うエネルギーによって、環境問題にコミットメントできるなら、自分自身に直接メリットがなくても、電気を使った方がいいよねと。自分が社会の一部で当事者であることを意識せざるを得ない時代とはそういうことでしょう。

コウサカ:サステナビリティも近い概念だと思っていて、洋服を作る上でサステナビリティが目的になるのではなくて、自然と過程に入っている状態を作りたいなと。サステナビリティを目的にしてしまうと、そこに興味のない人は最初から他人ごとだと感じてしまいます。

社会との関わり方の話に戻りますが、僕はもともと戦っているという意識があって、既存のシステムに対する反骨精神から今のビジネスを始めたわけです。でもすでに大きな企業がたくさんある中で、その規模には絶対になれないと思っていて。最初からそうじゃないところで戦おうとする弱者なりの戦い方をしているんです。だから、今思うこととしては、インターネットを通じて、僕たちの思想が拡散されることで、誰かが気づいてくれたらいいなと。もし、その中の誰かがブランドを始める時に、たとえばサステナビリティのような概念を意識してくれたら嬉しいんです。

栗野:いいことをして、後追いされるのはいいことですから。コウサカさんのブランドがモノを廃棄しないということをわかりやすくやっていて、それをビジネスモデルとして他のブランドが追いかけても悪い影響などない。ファストファッションでも10年着る人がいればそれはサステナブルかもしれないですが、仕掛ける側がトレンドという言葉を使い続けているのが問題で、僕がトレンドを否定しているのはそこなんです。

サステナビリティだって、いつか飽きるくらいなら本当は流行らないほうがいい。でも、矛盾するようだけど、これは流行らないよりは流行ったほうがいい。今は本当にシビアな状況なので、きっかけは流行りからでもいいからモノと真面目に付き合おうよ、ということを言い続けています。とにかく、モノを大事にしてくれればいい。それこそ愛の話ですね。

とくに「愛着」という言葉はすごくいい言葉で、もっと広がるべきだと思うし、それが世の中ハッピーになるキーワードなんじゃないかと思います。NHK教育テレビのある番組でフランスの政治学者のジャック・アタリがパンデミックへの対抗策として「利他主義」という言葉を使いましたが、それはエゴイズムの対極にある言葉であり、日本では仏教的な観念だから親近感があるかもしれないけど、ヨーロッパでもそういう言葉があるんだということに驚きました。

考えてみると、所謂ラグジュアリーってまさにエゴイズムだったんだなと。自分だけが美味しいものを食べて、高い洋服を買って楽しむ。それをお金によって体感する。エスカレートすればするほど利己主義のエゴが増大化してキモチは孤独になっていく。一方で、利他主義は「誰かのためになったらいいな」ということからスタートしているから、満たされないということがない。たまたま僕は人の役に立てることこそが楽しい、とある時期から思っていて、会社のポリシー自体も利他主義に根ざしたものだった。だからこそ、ここまでやってこれたんだと思います。

ーー対談後に。

今回の対談企画に対して個人的なツテを使ってメールを送らせていただいた時に栗野さんから「まずは対談するかどうかは抜きにして一度お話を聞かせてください」とUAの本社に呼んでいただいた。foufouについて、今回の出版記念企画がどういう意図を持っているのかを伝えたところ「せっかく協力するのであれば、しっかりと文脈を持った対談にしたい」という要望をいただいた。つまり「foufouのファンにとって”気持ちがいい”言葉だけは言わないけどいいかな?」という意思確認だったと思う。

僕としてはむしろ「foufouのSNSを通じてfoufouを普段から愛用している方だけではなく、業界内外含め様々なビジネスマンが見るものだからこそ、もちろんそうしていただきたい」と伝えた。

恐らく栗野さんは「自社note」というコンテンツを「ファンコミュニティ」のようなものだと感じられたのかもしれない。しかしnoteとはかなりパブリックなもので当然、ファンの方以外の目にも止まる。

そしてもし本当にファンコミュニティ向けのコンテンツを作るのであれば業態も規模も全然違うUAの栗野さんを呼ぶわけもなく今話題の同じような活動をしている若手と話した方がわかりやすく「ある意味、今っぽい」はずだ。

対談前に一度お話をさせていただいたあと、角田氏と「すごい時間だった、、」と興奮覚めぬうちに対談のテーマを考え直し、その日中にもう一度テーマをお渡しした。栗野さんは意思を汲み取っていただき今回の対談につながった。

時間目一杯、少しオーバーするくらい話をお伺いし、最後には「foufouはオリジネーターなんだから、そのままでいなさい」と言っていただいた。人生の数ある体験でも、貴重な一日になったと思う。

尊敬の念と同時に「僕らも社会をよくしていくためにファッションを続けよう」と野心も燃えた。

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※撮影はユナイテッドアローズ本社内にある日本服飾文化振興財団の資料室にて行いました。

(写真:今井駿介、文・編集:角田貴広)


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