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"弱さ" は祝福

小学生の時、ドッジボールをすれば全く相手の球を取れず、野球をやれば振れども振れども打球は遠くに飛ばず、授業終わりの小テスト(その授業のまとめみたいなものを簡単にテストするやつ)ですら覚えてられず、計算ドリルをやれば見落としミスがある散々な子供だった。

「あ、自分は人より秀でたものがない」と全てを諦めて、「せめてもクラスで"あいつは能力はないけどいいやつだし面白い"くらいの立場ではいたい」と思い人の顔色を伺い、プライドも時には捨てて笑われることを快感にして自分の居場所みたいなものを作ってきた。

段々と学校でできる遊びにもみんな飽きてきて、みんなにとっての快適な自分でいれるために限られた資源でできる新しい遊びを考えるようになっていた。プレイヤーでは活躍できないので自然とそうなっていた。

するといつの間にか、人が集まりだし自分が考案した遊びは他のクラスの子たちの心も掴み、下校中に他のクラスの子たちにも声をかけられるようになって、その時その時によった資源を使って新しい遊びを作っていた。

今の僕は小学校の時から何も変わっておらず「能力はないけどいいやつだし面白い、付いていけば楽しいかもしれない」をやっている。

悲しいことに今でも業務はタスクに刻まれていても忘れるし、提出物は間違えやミスが多い(面白がってもらう分にはありがたいけれど迷惑をかけていることも事実なので決して開き直りたくはない笑)

弱いままの自分を受け入れ、認め、恥ずかしがりながら、相手に対して心地よいものを提供したいと思う。

これが自分でも変だなと思うのは「弱いことを変えはしない」ことだ。
強くありたいとは別に思っていない。

考えてみると「強さ」とはつまるところ「あるルールに基づいた評価」でしかない。
ルール自体が変わってしまうと強さは意味を持たず、また別の強さを身につけなければならない。

強さを求めることは無限で果てしない、
「つえーやつって、いっペーーーいんだな、ワクワクすっぞ」である。
ワクワクできるサイヤ人はいいけど、オラは強くなれねえ。。

弱さを受け入れ、弱いままでいようとすることを試し続けたい。
弱くいることを維持できること、そしてそんな環境にいること。
それは祝福のようなものだとも思う。

同じように弱い誰かにとっての快適な自分でありたいなと思う。

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