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とある変人のコンプレックス

 最近少しヘコんでいる。認めたくないけど、やっぱり否めない。
これを書いている、今台湾にいる僕はストレスの溜まり場となって頭がひどく痛くて、心が帰りたい気持ちでいっぱい。
やっぱり留学が大変。
 
 日本にいたときもそう思ったけど、去年アイルランドに帰ったら、留学というものがどれだけ大変だったのかを忘れたみたい。
自分の意志を伝えられるようになりたい。現地の友達を作りたい。
でも何よりも間違いをしたくない。間違えたらニセモノだとバレるから。
外国人だから間違えるのが当然なことなのに、間違いを必死に避けながら生活してきた。
でもわかっている。間違いをしないと、友達を作る、意志を伝える、そんなことを一生達せない。完璧主義って長所一つもない。
 
 他の人は僕が何で語学に対してこんなに真面目なのかわからないかもしれない。それはそうだ。僕もよくわからないし。
ただ僕は、外国語ができるほど、これこそが自分の「価値」になる、という変な価値観を抱いていることがわかる。だから毎回間違えたら、自分がどこか足りないという風に感じる。
変だろう。これが氷山の一角なのだ。
 
 僕は英語のネイティブ。でも、英語わすれたら平気。友達によくこう言う。
説明がちょっと難しいけど、主な理由としては、英語ってそもそも僕の国の言葉じゃないから。アイルランドが今英語圏に入っているのは、ただ前に支配国だったイギリスのせいだっだのだ(ほかの国もそうだけど)。
だから多くのアイルランド人の母語なのに、僕にとって、「英語」というものはほかの国の言葉のような存在に思える。「外」から押し付けられた元支配者の言語だ。つまり、僕のアイデンティティの一部分じゃない。そんなこと忘れてもいいだろう?
 
 外国語を勉強することで、自分の言葉、頭の中の言語は歴史的な要因とか、生まれた環境とかによって定められたものではなくて、むしろ自分の選択である、ということを証明したかったかもしれない。人生の中で、色んなことは自分で選べない、コントロールできない。母語はその中の一つ。それでも僕に英語を話させた神様に対してちっぽけな反乱を起こしたかった。
自分のことばを自分で選ばせてもらいたい。

 もちろん、自分の意志が一番伝えやすい言葉が英語だと認める。この事実を受け入れるけど、少なくとも生活の言語を自分の基準で選べるようになりたい。
いつからこんな考え方をし始めたのか、わからないけど、気づいたらもうヘンテコリンな人生の方針を固めた。

アイルランド語。日本語。中国語。

この三つの言語を流暢に話せるようになれば、思い残すことなく死ぬ。そのため英語が犠牲になるとしたら、どうにでもなれ。
 
 最近、中国語の勉強で挫折に遭うたびに、僕のこの変な反乱が失敗したかのように感じる。台湾に来たら、生活の中でもっとも簡単なことも難しくなってしまった。注文したり、冗談だったり、友達をできたり。これはすべて単に中国語がまだ足りないというせいなのだ。こんな時、どれだけ思いたくなくても、「これ英語でやったらいいのに」って思ってしまう。自分の3か国語計画を妨害する厄介な思いだ。無理って言ったやろ、って神様に笑われている感じ。
やっぱり、こんな毎日の挫折は日本でも経験したことがあって、結局乗り越えられたから、いざとなったらなんとかなると思うけど、こんな挫折にやられたとき、その瞬間で、ただ全部を放棄したくてたまらない。まあ、客観的に見たら、そっちのほうが楽だからね。
 
 もちろん、無理するのも悪いことってわかるから、疲れて中国語をどうしてもしゃべられないときは休むけど、そのときにもある形で神様に対して中指を立て続けたい。これは、今の不安を英語じゃなくて、日本語で言語化しようとしている理由の一つだ。
 
 あとは、完璧主義者の自分にも飽きたから、この文章の文法をネーティブに訂正してもらわないまま直接に投稿しようと思う。間違えっていいことだ。ミスっても死なないというんだろう?

 この文章はあくまでも中国語でいう「發洩」なので、特に切りのいいまとめ方を思い浮かばない。
ただ、これからも頑張りたいってところですかね。 
そして、くたばれ英語。負けるわけねえ :)

いーらい