此処は罠の巣/高知遠征九日目

シンボリルドルフの突然の高知トレセン来訪は、それこそ蜂の巣を突いたかのような大騒ぎになった。

サインを、握手をとねだる者はもちろん、ある者はレースについての教示を乞い、またある者は無謀にも挑戦状を叩きつけ、またあるものは戴冠レースの裏話を......と、実に枚挙にいとまが無かった。

「あの、ルドルフはですね!暫く滞在されるそうなので!どうか後日!今のところはお引き取り下さい!」
「ほらほら、ルドルフはお疲れなんだ!テメェらもレーサーの端くれなら、ちっとは遠慮をわきまえな!」

ルドルフが高知トレセンのロビーに姿を現した時、私はまるで彼女の臨時マネージャーであるかのようにその場を取り仕切り、興奮の坩堝と化したロビーで生徒たちを宥めた。途中で騒ぎを聞きつけたテイオーが加勢し、ようやく場が落ち着いた程である。夏季休暇中でよかった。生徒数が少ないとはいえ、これが学期内の出来事であったとしたら、我々にはもはやどうすることも出来なかっただろう。

「全く、手間かけさせやがって」

テイオーはそう吐き捨てると、ようやく肩の緊張を解いた。固めた拳を逆の掌で包み込み、あたかもそれに一働きさせたかのように、指をほぐしていたわっている。

「すまないなテイオー。少々軽率だったようだ」
「だったようだ......じゃねぇわ。この殿様が」

苦笑いで謝罪するルドルフに、テイオーは取り付く島も無いというような顔と言葉で返答している。後髪引かれるよう、振り返りながら三々五々と散っていくウマ娘たちの背中を見送りながら、私もようやく落ち着きを取り戻すことができた。

警察署からの道すがら尋ねたところでは、これはルドルフの『夏休み旅行』なのだという。
8月に入ると、中央トレセンも本格的な夏季休暇を迎えた。生徒会の仕事も薄くなり、各競馬場やURA組織委員会とのやり取りも全て終えたルドルフは、高知で私たちに合流するために、万が一の事態は全てエアグルーヴに託し、学園を飛び出して来たのだそうだ。ローテーションを用いて消化するとはいえ、例年であればルドルフの夏休みは九月に割り込むような事も多いらしいが、今年はいの一番、真っ先に学園を抜け出してきたのだという。

つくづくウララへの思いやりが深い。もはや贔屓とさえ呼べるその思いの強さには、恐縮さえ覚えてしまう。

「ウララのことがどうしても気になってね。受け入れてくれたオリジナルステップにも、改めて礼を言いたいよ」
早足で私の斜め前を歩くルドルフはそう言った。
「では、ステップに会われますか?彼女も寮住まいらしいですし、夜であれば部屋にいるとは思われますが」
私のその申し出に、ルドルフは首を横に振った。
「いや、まずはウララだ。昨日もずいぶんと頑張ったようじゃないか」
昨日の未勝利戦の事を言っているのだろうか。
私は驚き、言った。
「それはまた、ずいぶんと耳が早いことで。東京でもオンエアされてたんですか?」
「いや、八百屋だよ。そこの商店街の、八百屋の店頭で見たんだ」

──何を言っているんだこの人は。

「......すみません。よくわかりません」
私は困惑し、ルドルフの顔を見た。
「実は私もなんだよ、ルビー君」
ルドルフもまた、同じような表情をしていた。

そんな奇妙な問答を繰り返しながら、私たちはウララの待つ部屋へと向かった。


「あーっ、ルドルフさんだ!こんにちは!」
部屋に備え付けの勉強机にノートを置いて、何かを書き込んでいたらしいウララは、開いたドアから顔を覗かせたルドルフを見るや、驚き、嬉しそうに笑った。
そして、部屋の隅に椅子を置いて、それまでウララと話していたらしい鹿毛のウマ娘が、耳と尻尾を逆立てて、言葉もなく硬直している。おそらく彼女はロビーの騒動を知らないのだろうから、無理もない。

「やあウララ、頑張っているようじゃないか」
「はい!ルドルフさんもお元気そうでなによりです!」

ルドルフが両手を広げると、ウララはその前に駆け寄り、頭を下げて挨拶した。

「勉強中──では、ないようだね。お友達と机に向かって、何をしていたんだい?」
そう言ったルドルフの視線が少女に向けられると、促されるよりも早く少女は名乗った。
「は、はじめまして!グリンセレサと申します!」
緊張のあまりか、なんと器用にも椅子の上に正座している。それを見たテイオーが吹き出し、私も笑った。

この、グリンセレサと名乗る少女が、次の未勝利戦への練習相手となるウマ娘だった。ウララと同期だが、学年はやはり一つ下になるのだという。

「すごい、本物だぁ......すごいなぁ。すごいね、ウララちゃん」
胸の前で握った両手を合わせ、まさに恍惚、といった表情でセレサがそう言うと、何故か隣のウララが胸を張った。
「えっへん!すごいでしょう!」
「いや......ウララちゃんは、すごくないよ?」
「じゃあ、すごくないでしょう!どうだ!」
「いや凄いんだってば!」
「えー?どっちなの?」
そのチグハグなやりとりに私は思わず頭を抱えたが、私の後ろではテイオーが手を叩いて爆笑している。ずいぶん気楽なものだと私は腹を立てかけたが、ルドルフも同じ調子で笑っていたので、私は何とも言えない気分を味わう羽目になった。

「じゃあ、そろそろ何をしていたのか、教えてくれないかな?」

ひとしきり笑った後、ルドルフがまたそう尋ねると、ウララは、今思い出したかのようにそれまで机に広げていたノートを掲げ、ルドルフに見せた。
「今ね!わたしの『レースのきろくノート』を付けてたんだよ!これはね、わたしが今までに走ったレースの記録なの!」
「ウララちゃん......説明になってないよ」
セレサから諭されるように右肩に手を置かれるウララであったが、それを意にも介さず、ウララはノートをルドルフに手渡した。
「ほう......レースの距離やタイムだけでなく、馬場状態、天気、着差も書いているのか」
「ええ、そうなんです」
そこはウララの代わりに私が返答した。
あのノートはウララとのトレーナー契約を交わした直ぐ後、ウララから存在を明かされたものであり、高知トレセン以前から続く、ウララに関する貴重なデータとなっていた。最初の頃はレース結果とタイムしか書いていなかったが、私が公式記録を遡り、書き加えた項目も多い。
「あと、そのレースで思ったこととかも書いてるよ!」
ルドルフはページをパラパラと眺めてから、何か感心したかのように何度か頷き、言った。
「しばらく見させてもらっていいかな?」
「え?うーん......ルドルフさんが読んでも、きっと面白くないよ?」
ウララはそう言って渋ったが、いい機会だから見てもらいなさい、と私が勧めると、彼女は恥ずかしげにしながらもノートを差し出した。

「じゃあ、明日からの練習について、少し話し合っておきましょうか」

そして、私がそう言ったか、そう言いかけたか。

その時だった。

「セレサ!セレサはいる!?」

突然ドアが激しくノックされたかと思うと、1人の生徒が息を切らせながら転がり込んできた。
「ルーチェじゃん!そんなに慌ててどうしたの?」
ルーチェと呼ばれた生徒は、両膝に手を置き、顔も上げないまま叫ぶように言った。
「だ、だってさ......どうしたもこうしたもないよ。一大事だよ!アンタ、先月にチーム『無限』の選考会に出てたでしょ?今、無限のトレーナーがアンタを探してるんだよ。チームに欠員が出たから......アンタ、繰り上がりで無限に入れるって!今から合宿に合流しろって!」
それを聞いたとたん、セレサは椅子を蹴って、飛び上がる程に驚いた。
「ほ、本当!?ほんとにホント!?私、受かったの!?ウソじゃないよね!?」
「何言ってんのさ、嘘だったら走ってくるわけないじゃん!それに今、合宿に行ってるメンバーがどんな連中か知ってる?一軍だよ!」
「うそ!?じゃあ......」
「そうだよ!アンタ、今日から『無限』の一軍なんだよ!よかったね!」
事態をようやく理解したらしいセレサの顔に、笑みが広がっていく。その隣ではウララが、よかった、よかったと繰り返し言いながら、全力の万歳を繰り返していた。

「セレサちゃん無限受かったの!?すごいじゃん!よかったね!」
「うん!ありがとう!私、頑張ってよかったよ!」

その時、私の顔をチラッと見てから、テイオーが言った。
「なあウララ、その無限っていうのは何なんだ?」
ウララは答えた。セレサに訪れた幸運を、まるで自分のことのように喜んでいるようだった
「無限っていうのはね、ここのトレセンでは1番のチームなんだよ?すっごく強いの!重賞で優勝するのなんか、ほとんど無限のメンバーばっかりだもん!他の地方の重賞も行けるんだよ!」
そんな言葉の端々から、ウララの興奮が伝わってくる。セレサの無限合格は、まさに人も羨む程の暁光、といったところなのだろう。
すると、ようやく息を整えたらしいルーチェが後を続けた。
「それだけじゃないよ!あのトレーナー、各地方だけじゃなくて中央にもパイプ持ってるの知ってるだろ?頑張れば、中央入りだって夢じゃないよ!今までだって、何人かいたもん!」
「中央!?凄い!セレサちゃん!もしそうなったら、向こうでわたしと一緒に走れるかもしれないよ!?」
「やったぁ!すごい!」
「ううん、わたしだけじゃないよ!オグリキャップさんとか、マルゼンスキーさんとか!わたしなんかよりずーっと凄い先輩たちと一緒に走れるんだよ!」
「すごい!凄い!私、絶対頑張る!待っててね!ウララちゃん!」
私たちが此処に来るまでの間、よほど努力を繰り返したのだろう。思いがけない朗報に感極まったセレサは、既に涙声でウララと語り合い、抱き合い、はしゃいでいる。喜ばしい光景ではあるが、私には酷く悩ましく思えた。

レースが明けて今日が月曜。そして次のレースは日曜なのだ。ウララを中心にして物を考えているようで申し訳ないのだが、次の未勝利戦までの時間が無さすぎる。前回は勝ちを逃すことを想定していたので、私は練習時間の合間を利用し、事前にセレサを次の練習相手として探し出す時間があった。時間があったからこそ、オリジナルステップ陣営に対しても秘密裏に事を為す事が出来たのである。加えて、彼女はイブキライズアップよりも短距離レースでの適性が高く、またウララとの相性も良いように思えた。だが、今から同じことが出来るだろうかと思うと、それはかなり怪しいと言わざるを得ない。週半ばから合同練習を始めたとして、上手くまとまるだろうか。

(おい、合宿に今から抜けられるっていうのは、ヤバいんじゃないのか?)

肩に手を置かれて振り向くと、テイオーの目がそう言っていた。私は口を結んだまま頷き、再びウララとセレサを見た。

「じゃあ......なんか、申し訳ないけど!私、頑張ってくるね!」

ルーチェに急かされ、何度も促された後、セレサは手を大きく振りながら部屋を出て行った。それをまた、大きく手を振って見送るウララの後姿を、私たちは、どこか釈然としない気持ちで見つめていた。

「少し困った事になったようだな、ルビー君」

名を呼ばれて振り向くと、ルドルフが少しだけ眉を寄せながら、セレサが出て行ったドアを見つめていた。
「はい、突然こんな事になるとは、いささか想定外でした」
ルドルフはウララにノートを返しながら言った。
「ああ、君たちにとっては本当にそうだろう。だが、少し妙だとは思わないか?」
「そうだ。ルドルフの言う通りだ」
ルドルフの疑問に、テイオーが即座に反応した。先程までのニヤケ顔は何処へやら、今は緊張に顔を引き締めていた。
「何だかおかしな話じゃないか。高知随一を誇るチームの一軍に、未勝利ウマ娘が選抜されるってのは。アタシはちょっと納得出来ないね」
「......あ」

言われてみれば確かにそうだ。

もちろん、チームトレーナーがセレサの可能性を買ったという見方も出来なくはない。私見ではあるが、あの娘は900〜1100m程度の短距離にズバ抜けた素質がある。しかし彼女のトレーナーがマイル以上の距離に拘りすぎた為、言わば憂き目にあっていたのだ。無限のトレーナーという人物がそこに気づいているのだとしたら、納得は出来るのだが──問題なのは、その『納得できる』という行為が、果たして正解なのかどうか、という点だ。

私がそう考えていると、ルドルフがテイオーに言った。
「ちょっと頼まれてくれないか」
「どうした」
「無限というチームのトレーナーがどんな人物なのかを調べてくれ。あと、欠員が出たという理由も知りたい」
「......わかった。今日中になんとかする」

テイオーの顔に新たな緊張が走った。私だってそうなのだろう。今、ウララを除くこの3人の頭の中に浮かぶ疑問は、完全に共通しているようだった。
「会長──」
だが、私がその疑問を口にしようとすると、ルドルフは冷静にそれを制した。
「ルビー君。今、君が思っていることは口にしないほうがいい。この間の悪さだ。私も考えない訳じゃない。しかし、先入観は冷静な分析の妨げになるぞ。それだけは避けなくては、な」
「......わかりました」
「私はステップに会ってくるとするよ」
「おい、私も連れて行け!」
テイオーがそう叫んだので、ウララが尻尾を逆立てるほどに驚いた。
しかしルドルフは、ウララの頭を優しく撫で、テイオーに言った。
「いや、何も問い正そうというつもりはないよ。ただ予定通りに彼女に会い、話し、礼を言うだけさ。もし心配なら、君も今の内に動いてくれないか。消灯の時間まで余裕はないぞ」
「......わかったよ」
テイオーは頷き、先に部屋を出た。ルドルフもまた頷くと、部屋を出た。
私はそれ以上喋ることはしなかったが、その反動か、私の心の中では疑問が渦を巻き、大きくなるばかりであった。

こっちの作戦が、バレている。

その上で、ステップの妨害工作が始まろうとしているのではないか、と──


[newpage]
 

次の日の朝。

「おはよう御座います」
「おはよう」
「おはようございます!」
「ああ、おはよう」

私たちは食堂で待ち合わせ、揃いの定食で朝食を迎えた。ルドルフには私たちとは別の個室を当てがわれたので、あのまま寮に滞在したのだ。
「よくおやすみになられましたか?」
私がコーヒーのポットを差し出すと、ルドルフはカップを差し出しながら、まるで感心したように言った。
「ああ、高知の夜は快適だな。クーラーの温度設定に悩む事もない」
それを受けて、朝はパン派のテイオーが、ウララのトーストにバターを塗りながら言った。
「東京が暑すぎるのさ。今日もそれなりに気温は高くなるらしいが、その違いもすぐにわかるよ」
ウララといえば、ハムエッグをトーストに乗せ、オレンジを頬張り、かと思えば、今度はヨーグルトをかき込んでいる。見ていて何だか忙しい。
「今日の練習は楽しみだなぁ!ルドルフさんが並走してくれるんでしょ!負けないからね!」
さらに牛乳を飲み干したウララは、そう言って笑った。
「だからって、そんなに急いで食べるもんじゃないわよ?」
「そうだ。よく噛んでゆっくり食べるんだ。牛乳も噛んで飲むんだぞ?」
「牛乳も?何で?」
「消化が良くなるんだ。お母さんに言われなかったか?」
「言われてないよ!あ、でも!おばあちゃんは言ってたかも!」
ウララの放ったパワーワードに、テイオーは身を震わせながら牛乳を吹き出した。ルドルフがハンカチを出した後、私たちは4人で笑った。

そうなのだ。

ウララは練習相手を失った。だが、その練習相手としてルドルフが名乗りを上げたのだ。それは嬉しくてたまらないだろう。トウカイテイオーが聞いたら目つきが変わりそうなサプライズ展開である。

「それで、何かわかったかい?」
ルドルフが一つ咳払いした後、テイオーにそう水を向けると、テイオーはポケットから薄い手帳を取り出し、その内容を読み上げた。
「無限のトレーナーは宗像という男性だ。トレーナー歴は各地を転々としながら10年。しかしこの高知が1番長い。一見して根性至上主義のようだが、素質や性格を深く見抜く力がある。未勝利からチームに入るのは、特別珍しい事ではないらしいな。彼の厳しいトレーニングに食らいついて、未来の開けた生徒も大勢いる。生徒の信頼も厚く、チームの結束も固い──ちなみに、元テニスプレイヤーだったそうだ」
そこまで一気に読み上げると、テイオーはコーヒーを口に運んだ。話ぶりと内容からすると、私たちが心配していたような事案からは、かけ離れた人物のようだ。
「なかなかの評価だ。中央にも欲しいな」
ルドルフはテーブルに両肘を突き、空になったコーヒーカップを手の中で弄びながらそう言って笑った。
「欠員の理由は?」
「それもはっきりしている。先月怪我をしたスプリンターに、回復の兆しが見えてこないらしいんだ」
なるほど。
欠員についても、妙な勘繰りが入る隙間は無さそうだ。
「ステップの方はどうでしたか?」
私がそう言うと、ルドルフは静かに首を横に振った。
「苦労したよ、当たり障りのない会話を意識して進めるというのも。結果的には何もわからなかったが、ある意味で予防線を張る事には成功した、と、そう思っていただきたいね」
それを聞いたテイオーが、眉間に深く皺を寄せてから言った。
「少し甘いんじゃないのか?首根っこ押さえつけりゃ、必ず吐くさ」
「彼女にそんな事は出来ないが、やったとしても絶対に口は割るまいよ。それだけはわかった。そんな女だということはね」
「......いよいよ気に入らないタイプだ」
テイオーはそう吐き捨てると、まるで八つ当たりするかのようにオレンジに齧りついた。
ルドルフは続けた。
「だからこそ怖い。その気になったら何でもやってきそうだ」
食堂に人はまばらだというのに、いつのまにか、私たちは息を潜めるように会話を進めていた。

「ウララ?ウララはいる?」

入り口の方からそんな声が聞こえてきたので、私たちは同時にその方向を見た。はーい此処にいますよ、とウララが招くと、早歩きでテーブルまでやってきたのは、またもや生徒と思しきウマ娘だった。

強烈に嫌な予感がした。

「あ!ドマーニちゃんだ!久しぶり!」
「おはよう。せっかくの朝ごはんなのにごめんなさいね」
ドマーニと呼ばれた生徒は、自己紹介もそこそこに話し始めた。「ウララ、急で悪いんだけど、今度の開催日にハーフタイムショーに出てくれないかな?お願い!」
ドマーニはいかにも申し訳なさそうにそう言うと、両手を擦り合わせて頭を下げた。
「私ね、今、広報やってるんだけど、あなたの問い合わせが凄いのよ。ハルウララはハーフタイムショーのミニライブには出ないのか、って」

予感が的中し、私とルドルフは素早く視線を交わした。テイオーは露骨にドマーニを睨んでいる。しかし1番驚いたのはウララだったようで、椅子が後ろに弾け飛ぶ勢いで立ち上がると、ドマーニに顔を寄せた。
「えーっ!?でも、わたしなんかが出ていいの?だって、わたしはホラ、今は──」
「ウララが今何処の所属かなんて、もう構ってられないわよ。この際だもん。もう電話が止まらないの。もう耳がいたくて手もパンパンで。ね?私たちを助けると思って。お願い!」
ドマーニの顔の前で、彼女の掌がパン、と音を立てた。その様子はまさに拝み倒すという表現そのもので、私は神社の正月風景を思い出したほどだ。

ミニライブ。
ハーフタイムショー。

こんな状況でさえなければ大歓迎なのだが、生憎そうもいかない。だが、遠征を受け入れられたという立場上、そしてウララの地元ファンの手前、断るというのもそれはそれで厄介だ。

セレサのスカウトは偶然の雰囲気が強い。
では、これも偶然なのだろうか?

そう考えた瞬間、私の体の奥底で、冷たい何かがはいずるような耐えがたい嫌悪感が、強烈な後悔と共にやってきた。

違う。これは──ウララだ。
ウララこそが、この事態を呼び寄せた張本人なのだ。

如何なる偶然も、ステップの意図も関係はない。これは明らかに、ウララが高知に凱旋した事に起因するファンからの反応だ。高知で人気者だったウララが、中央でもまた話題を作って帰ってきたとなれば、地元ファンは絶対に放っておかない。私はウララの地元人気の凄まじさを知らなかった上、移籍から間もないので気づきもしなかったが、よく考えてさえいれば簡単に見通せる『予測された事実』だったのだ。気づいてさえいれば、回避は出来ないとしても、それなりの対策は打てたのだ。

私は素早くテーブルから離れると、「ちょっと、ドリンクバー」と言ってからウララとドマーニの2人の間に距離を取った。それに気づいたルドルフとテイオーが、カップを片手に私の後を追ってきたので、私は2人と肩を寄せるようにして、先程思いついた私の考えを伝えた。
「......シャレがキツいぜ」
真っ先に口火を切ったのはテイオーだった。
「アンタは今、その事に気づかなかった事を猛烈に後悔しているようだがな、今アンタが言った事全部を、ステップが気づいていたとしたらどうなんだ?」
そう言われて、私は目の前が真っ暗になるほど脱力した。
「──そうか、ステップなら簡単に気づく!」
「それだけじゃないぞ。昨日のスカウトの件だって、もう一度考えてみろ。トレーナーとの契約については、必ず生徒会が仲介するだろう?ステップが今回の件、無限のトレーナーがセレサを欲しがっている事を見通し、さらにウララとの練習相手になる事すら想定した上で、セレサの無限入りを引き延ばしていたとしたら、どうなんだ?」
怒りか、焦りか、テイオーは早口で猛烈に捲し立てた。
そのテイオーの言葉に、深く頷いたのはルドルフだ。
「ステップは、労せずとも今回の状況を生み出すことが出来た、と、そういうことか......」
「ちょ、ちょっと待ってよ、全部が全部、予定調和だったって言うの?」
「ああ。もう疑う余地はない。奴がアタシらを受け入れた段階で既に、今まで起こった事柄は全部折り込み済みだったって事さ。こっちが甘く見すぎていたんだ。アタシたちは、罠の巣にまんまと誘われてしまったって事さ」
私は激しく悔恨した。初戦に立てた作戦で、ステップを上手く出し抜いていたという状況も、私の慢心を誘っていたのかもしれない。確かに出し抜いてはいたが、それだけで満足してしまったのがそもそもの間違いだったのだ。

畜生め──何という間抜けだろう。

席を振り返ると、ドマーニが踵を返そうとしていた。ウララの事だ。おそらくは相手を帰らせるに十分な返事をしてしまったのだろう。

「あ、トレーナー!」

席に戻ると、ウララが手にしていたフォークをサイリウムのように振り回し、私たちを出迎えてくれた。困った事に、既にやる気は満々のようだ。

「ドマーニちゃんから聞いたんだけどね!私のライブ、クルマ4台も出してくれるんだって!楽しみだなぁ!」
「そ、そうか。そいつは凄い!楽しみだな!Gallop-Tokで生中継してもいいか?」
「えーっ?ライブは録音禁止の筈だけどなぁ?中継はどうなんだろ?」
「いーじゃん!固いこと言うなよ?」
「あはは!テイオーさん、怒られても知らないよ!」
ウララとそんな会話をするテイオーが、無理矢理明るく振る舞っているのが痛いほどわかった。何だかヤケクソ気味にさえ見えてくる光景だったが、私は少し、心が痛んだ。
先程テイオーが口にした、『罠の巣』という言葉が、その心の中で徐々に頭をもたげてくる。
このまま、流されるように二戦目を迎えるしかないのだろうか。

その時、ルドルフが私の袖を引いた。
「ルビー君」
「何でしょう」
「もはや、不安にばかり捕らわれるのはやめようじゃないか」
「えっ?」
その意外な一言について、私は賛成も反対もできず、ただ狼狽した。
「ウララを見てみろ。今あれだけ笑っているあの娘が、これまでの事に何も気づいていないと思うかい?何の不安も抱えていないと?そんな事はないだろう。しかし彼女は今、笑っている。未勝利という現実の中、様々な妨害や不運を感じながらもね。ルビー君、これはね、間違いなく我々の強みだよ。我々には、ウララがいる。どこまでも着いて行こうじゃないか」

ルドルフは私にそう言うと、私の反応を待つ事もなく、ポケットからスマホを取り出した。会長、どこに、と言う前に、ルドルフは電話の向こうの相手と会話を始めてしまった。

「やあ、広報かい?ハルウララのハーフタイムショーの件だがね、選曲と振り付け、演出についてはこちらで企画させて欲しいんだが、そのように配慮しては頂けないだろうか──そう、そうだ。私は、シンボリルドルフだ。私も出ようじゃないか」

なん──だと

「か、か、会──」
会長、何を言うんです。
思わずそう叫びそうになる私に向かって、ルドルフは人差し指を1本、上に向けて私に見せつけてきた。黙って見ていろ、という意味なのだろうか。

そして、進んでいく会話の内容を聞いているうちに、ルドルフの魂胆が徐々に明らかになっていった。

ハーフタイムショーについてこちら側に主導権を移すことで、今後生じてくるだろう練習時間の削減を強引に回避したのである。しかもルドルフがライブに登場するというサプライズを取り付ける事により、運営側へも話題を提供した。この状況下で見事としか言いようのない、win-winの取引である。

「楽曲は──そうだな、『ウマぴょい伝説』でどうだろう?用意出来るかな?──そうか、助かる。衣装はこちらで用意する。ああ、そうだ──わかった。ご協力に感謝する。告知はたった今から全力でやってくれ。こちらとしても、全力で取り組ませてもらうよ──ああもちろん。もちろんだとも──それでは」

ルドルフが通話を終えた。気づくと、ウララとテイオーがあんぐりた口を開けたままこちらを見上げていた。私の口も開いているのだろうか?不思議な事に、それは私にもわからなかった。

「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあると言うじゃないか。ここは逆に、この状況にとことん乗っかって楽しもう。さあ、参加者は?」

ルドルフが、まるで宣誓でもするかのように右手を上げる。その後をウララ、テイオーと続き、その後に、私も続いた。

「やろう!皆んなで頑張ってやってみようよ!」

ウララが皆にオレンジジュースを注いで周る。どうやら乾杯を誘っているらしい。

「そうだぜ。こうなったらジタバタするのも性に合わないからな。どうせなら相手がひっくり返るくらいの事を、バーンとやって見せようじゃないか。なあ皆んな、そうだろう!」

テイオーが音頭を取ると、4つのグラスは勢いよく打ち鳴らされた。

「クルマは4台、我々は4人。そしてやる事は1つさ。中央のショータイムとはコレなんだというところを、見せてやろうじゃないか!」

ルドルフの掛け声に共鳴するかのように、4つのグラスが天井にまで届かんばかりに突き上げられ、4つの歓声が食堂を埋めた。喉を潤していくオレンジジュースが、不思議なことに私に活力を与えてくれた。不安は消え、目が冴えざえと輝いた。迷いのない確かな闘志が湧いてきて、体の芯さえ温めていく。

私たちは食事を再開した。何度か笑い、話し、また笑って食べて、それを何度か繰り返した時、私は少しだけ、妙な事に気づいた。

「あの、会長?」
私はルドルフの耳元に口を寄せて、言った。
「何かな?」
「4つのクルマ、やる事は1つ。もちろんそれはわかりますが、その、我々は4人、というのがですね、その......どういう意味で?」
ルドルフは、ハムエッグの最後の切れを口に押し込んでからナプキンを使うと、なんだ、そんな事か、と呟いてから言った。

「君も歌うんだよ」
「──え?」
「勝負服は、まだ持っているんだろう?今のうちに取り寄せたまえ」
「ええ!?」
「心配する事はない。ウマぴょい伝説は、ああ見えてそれほど難しい曲じゃないんだ」

もう一度、えええと叫びかけて、私は諦めた。どんなに信じがたい内容であっても、何時如何なる時であっても、ルドルフは嘘を言わない。それだけは確かなのだから。

さあ、えらい事になった。

願わくば、このことがトウカイテイオーとエアグルーヴ、そして私の教え子たちの耳に入りませんように。

私はクリスマスケーキですらろくに食べもしないくせに、胸の前で十字を切った。

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