死について考えていた時期

 小3くらいの時期にいちばん死について考えていたと思う。当時テレビでやってた「アンビリバボー」(司会が所ジョージだった頃)のある回でマヤの予言が取り上げられた。古代マヤ暦には2012年12月○○日以降の暦が欠落している、そのため2012年のその日に地球が滅ぶという予言である。まことに馬鹿げているが、小学生の僕には大真面目な問題だった。ちょうどその頃このマヤの予言に取材した『2012』というパニック映画も公開されていた。
 それで「アンビリバボー」ではその滅亡に至るプロセスを検証していた。まず全国各地でオーロラが現れる。電波障害で国中が混乱に陥る。それから大災禍に次ぐ大災禍、地殻変動が起きて人類は滅ぶ…というシナリオである。これが怖くて仕方なかった。一緒に番組を見ていた母親に「これほんまなんかな?俺死ぬんかな?」と聞くと、「まあ死ぬ時は一緒や」と適当な返事が返ってきた思い出。夜に車で外へ出たとき、空に目をやってはオーロラが出てるんじゃないかと怖がっていた。なんにせよ僕は人類滅亡が招く「死」に恐れ、暇がある時はそのことばかり考えた。思えばむかしから「死」には敏感だった。「三年峠」なんてあまりに恐ろしくて読む気が失せたし、学級文庫に置いてあったホラーの絵本を読んでは、「自分には幽霊が見えたりしないか」と学校に来るたびに怖がった(幽霊が見えると死ぬという絵本だった)。せめて死ぬまではまじめに生きようと思い、学校の宿題を帰ってすぐに済ませる日が続いた。結局すぐにやらなくなったけど。
 上のマヤの予言もそうだが、小中学生の頃は死について特に過剰に反応していた。友達から「まぶたに血管が浮いてる奴は早死にする」というのを聞いて夜も眠れなかった。鉛筆の芯が指に刺さると血管を通って心臓に到達して死ぬと本気で信じていた。小6でワンクリック詐欺に引っかかったとき、金を強請りにヤクザがうちに来て殺されるんじゃないかとビクビクした。当時ピラメキーノで知ったムラサキカガミに背筋が凍った。とにかく死が間近にあった。
 ただ一つ言えるのは、僕は死後のことを恐れるでも、死ぬ時の苦しみを恐れるでもなく、単に「死」そのものを恐れていたということだ。想像力がないといえばそうだが、小学生の頃の精神の不安定さが、そのまま死への恐怖に直結していたのかもしれない。それは、ひょっとして自分以外の人間がみんなロボットなのではないか、世界は初めから終わりまでぜんぶ決定済みなのではないかという疑問と不可分だった。他人も死ぬということがまるで理解できていなかった。

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