見出し画像

河野洋平の「貶台」話

■河野洋平という男

元自民党総裁である河野洋平氏。すでに政界を引退しで久しい「ふつうの人」になっているが、彼の現役時代を知らない人は、河野太郎氏の父親と言った方がわかりやすい。

彼のもう一つの顔は、自民党の中でも指折りの親中派。そのボスの一人と言える存在で、本人もそれを隠す意図は全くない。

先日も、こんな発言をして議論を読んでいる。

氏の親中ぶりを昔から知っている人にとっては、

「相変わらずだな…」

と眉毛一本動かないが、とにかく「日中友好」の軸は絶対にブレないのである。
息子の太郎氏は、オヤジとは違うというスタイルを取り公言もしているものの、オヤジの路線を否定もしていないのでそこはものの受け取りよう。

ところで、自民党に限らず日本のいわゆる親中派(と左翼)には、ある共通点がある。
それは、「台湾をガン無視する」ということ。
まるで「台湾なんてこの世に存在しません」と言うが如く、台湾には全く触れようとしない。非友好的ではないのではない、そもそも視界に入れようとしないのである。

おそらく、自民党左派(と私は言っている)にとって、台湾は「日中友好の邪魔」であり、中国様のご機嫌を損なう癌という扱いなのだろう。

それに対し、左翼の台湾観は少し違うのだが、それに関してはまた機会があれば書こうと思う。

そんな風に、台湾の存在をことごとく否定する親中派。公私ともに台湾には触れるまい、触れるまい…としているのだが、アクシデント的に台湾と接触してしまったことがある。

■台湾に降りなかった男

河野氏が外務大臣だった1995年のこと。
タイのバンコクで開催されるASEAN外相会議に参加するため飛行機に乗ったものの、台風で避難のための緊急着陸を余儀なくされた。
その着陸した空港が、当時の中正国際空港、現在の桃園国際空港であった。

空港名の「中正」は蒋介石の名前であり、あの北朝鮮ですら「金日成空港」がない中、東アジアでは非常に珍しい人名を冠した空港であった。
そんな「蒋介石空港」に、「日中友好絶対論者」の河野氏が降り立つわけにはいかない。
彼は何度も降機を促されたが、それには一切応じず、飛行機の中で「籠城」。一歩も外に出ることはなかった。

そしてバンコクに到着後、当時の銭其琛中国外相*1に、

「私は台湾の地を一歩も踏みませんでした!」

その「忠誠心」を褒めて欲しかったのか、その姿は、まるで子供が「善行」を親に報告するかのような態度だったという。その時の外相の心境や、

「お前、何言ってるんだ?」

とさぞかしドン引きだっただろう。

◼️もう一つの「貶台」話

河野氏にはもう一つ、台湾を貶めた話がある。

2001年、元台湾総統の李登輝氏が心臓病の治療のため日本を訪問する意向を表明した。
この件で外務大臣の河野氏は「中国の機嫌を損ねる」として猛反対。森喜朗総理が首相として命令しても、彼は頑として首を縦に振らなかった。しかも、外務省は「李登輝氏からのビザ申請の話はない」という嘘のアナウンスまでする醜態ぶり。
河野氏と外務省にとっては、台湾、李登輝は「日中友好を邪魔するトラブルメーカー」に過ぎなかったのである。

賛成派:森喜朗首相、安倍晋三官房副長官
反対派:河野、福田康夫官房長官、槇田邦彦外務省アジア大洋州局長
(と公明党)

という「親台派」vs「親中派」の対立となった結果、森首相のトップダウンで来日が決定したものの、そのすったもんだぶりに李登輝は激怒。

「日本の肚は鼠より小さい‼️💢」

と吐き捨てた。この腰抜けめ!と罵られたようなものである。
日本統治時代を経験し日本に郷愁を持つ台湾人も、

「我々が知っている日本人は死んだ」

と落胆の顔を見せていたのを、当時台湾と中国を(香港経由で)行き来していた私は覚えている。そして、私も同意せざるを得なかった。それほど情けなかったのである。

2001年訪日の裏舞台については、裏方として動いた江口克彦氏の話に詳しい。

この話、私のように古くから東亜情勢とお付き合いしている人間の間では非常に有名なエピソードである。が、如何せん約30年前の話となるので、知らない人も多くなっているだろう。
だからこそ、今後にも受け継ぐべき「貶台日本人列伝」として、歴史に刻んでおかなければならない。

昨今は史上最良とも言える日台関係、中国から見ると「自称俺の彼女」が俺様の目の前で小日本なんかとイチャイチャしやがって!
と歯ぎしりしていることだろうが、日本の「親中派」も同様、この蜜月ぶりと自民党の「親台派」の勢いにさぞかしほぞを嚙んでいることだろう。

*1:外相ではなく、中国外務省高官に対してという話もある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?